亡国の選択-イタリア国王はどこで間違えたのか?

人生に失敗はつきものである。
数々の失敗を乗り越えて人は成長し、生きていく。
しかし、中には取り返しのつかない失敗というものも存在するのも事実だ。

そして、それはしばしば間違った人を信頼してしまったために発生する。
今回の主人公ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は
そんな失敗をひとつ犯したが為に国を失ってしまった人物である。

イタリア王国の栄光

中世以降、イタリア半島は小国に分裂し、諸外国の介入を常に受けていた。
しかし、19世紀にナポレオン体制を経てナショナリズムが勃興、
イタリア統一の気運が高まることになる。

まず、ジュゼッペ・マッツィーニが
1831年に政治結社「青年イタリア」を組織して先鞭をつけると、
彼に影響されたジュゼッペ・ガリバルディが活躍を始める。

当時のイタリア

当時のイタリア

ガリバルディは1860年に義勇兵を率いて
両シチリア王国で発生した反乱を助けるためにシチリア島に上陸。
連勝を続け、ついに両シチリア王国をほぼ併合してしまった。

一方、イタリア半島北部を支配していたサルデーニャ王国は
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世治世のもと、
宰相カミッロ・カヴールの卓抜した外交戦術によって支配地を拡大していた。

南下して中部の教皇領をほぼ支配下においたサルデーニャ王国は
ガリバルディの勢力と接することになった。
これに対し、ガリバルディは全軍と支配地を全て
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上するという行動に出る。

こうしてイタリアはサルデーニャ王国によってほぼ統一され、
イタリア王国として生まれ変わることとなった。
こうして誕生した初代イタリア国王
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の孫にして
3代目国王がヴィットーリオ=エマヌエーレ3世である。

ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世

ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世

成功した選択

ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は
父ウンベルト1世の暗殺にともない、1900年に30歳で即位した。
彼は父の遺言に従い、議会を尊重する穏健な君主として振る舞うことにつとめた。

国王の政治に対するこの姿勢が明確に変化したのが1915年である。
1914年に勃発した第一次世界大戦に対し、
当初イタリア王国は静観の構えをとっていた。

イタリア王国はドイツ帝国、
オーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を結んでいたが、
密かに敵対する協商側のイギリス・フランスと交渉し、
未回収であったイタリア地域獲得の約束を取り付けた。

ロンドン密約である。

この密約をもとにイタリア政府は
オーストリアに対する宣戦を決めるが、
議会の反対にあい、首相が辞任する。

しかし、国王は議会の決定を拒絶。
首相が復活することになり、イタリア王国の参戦が確定した。

第一次世界大戦時、イタリアのプロパガンダ用イラスト

第一次世界大戦時、イタリアのプロパガンダ用イラスト

このとき、参戦派として政治活動を行なっていた活動家のひとりが
ファシズム的政治結社「革命行動ファッシ」に加わっていた
ベニート・ムッソリーニである。

イタリア王国は内外に問題を抱えつつも
協商側として無事戦勝国となり、領土の獲得にも成功した。
ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世の面目は保たれたのである。

ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世の失敗

戦後イタリア国内では台頭する左派の社会党と
右派のファシスト勢力が激しく対立するようになり、
自由主義政権はこれらを抑えきれなくなってきていた。

1921年ファシスト勢力はファシスト党を結成し、
政治政党としての形を整える。
そして、地方都市を大衆を煽動して占拠するようにまでになり、
中央をもうかがい始める。

国家政体は君主制を維持するとし、軍の支持を引きつけた。

1922年10月、
ついにファシスト党はイタリア王国の首都ローマに進軍を開始する。
これに対し、首相ファクタは戒厳令の発動を国王に要請するが、
国王はこれを拒絶してしまう。

そして、ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は
ファシスト党の指導者ムッソリーニに組閣を命じたのである。

この選択が運命を決めた。

彼は君主制の維持を掲げながら各地を制圧し、
進軍してくるファシスト党にガリバルディの軍を見たのであろうか。

黒シャツ隊とともにローマに入場するムッソリーニ

黒シャツ隊とともにローマに入場するムッソリーニ

事実、ムッソリーニはガリバルディの熱烈な信奉者でもあった。

失敗の代償

ムッソリーニは政権を掌握して勢力を強め、
ファシスト党による一党独裁政治を実現する。

そして、数々の国内改革を行ないつつ、
エチオピアを征服し、
ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世をエチオピア皇帝に即位させた。

しかし、この独裁者は最大の失敗を1940年6月に犯す。
第二次世界大戦初期、中立を守っていたにもかかわらず、
ドイツが優勢になったと見るや分け前にあずかろうと英仏に宣戦布告したのである。

結果は誰もが知る通りである。
イタリア王国は敗戦国となった。

1946年6月、ファシズム体制に協力したヴィットーリオ=エマヌエーレ3世の責任を問い、
君主制を維持するか否かの国民投票が行なわれた。

結果は君主制維持が45,7%、共和政支持が54,3%であった。
ここにイタリア王国は終わりを告げ、イタリア共和国の歴史が始まる。

ファシズム台頭の責任をとって
ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世は既に
1946年5月にウンベルト2世に譲位していたが、流れは止められなかった。
国王一家は追放され、エジプトに亡命した。

そして、1947年末、
前々イタリア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世はアレクサンドリアで死去する。
父祖が築き上げた王国を失い、失意の中の最期であった。

ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世夫妻の胸像

ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世夫妻の胸像

コインについて

1912年イタリア10リラ金貨-表

1912年イタリア10リラ金貨-表

1912年イタリア10リラ金貨-裏

1912年イタリア10リラ金貨-裏

今回ご紹介するコインは
1912年にイタリアで発行された10リラ金貨だ。

片面はイタリア国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世の横顔であり、
VITTORIO EMANUELE IIIとイタリア語でその名が刻まれている。

もう片面は麦を刈る女神であり、
周囲にはREGNO D ITALIA、すなわちイタリア王国と刻印されている。

この女神が誰であるかは定かではないが、
服装と麦の収穫という場面から考えておそらくはローマ神話の女神ケレースであろう。

1912年といえばイタリア王国がオスマン=トルコとの戦争に勝利し、
初の海外植民地であるリビアを獲得した年である。
帝国主義への第一歩を踏み出した頃だと言えよう。

強国へのスタートラインに立った
イタリア王国の君主ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世はこのとき43歳。

まさか晩年国を追われることになろうとは想像もしていなかったに違いない。

 

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