え!?私がイギリス王に!?ウィリアム3世とその妻メアリー2世の生涯
皆さんは思いもよらない事を任された事がありますか?世の中にはいきなり大きな仕事を任されたりする人もいます。
ウィリアム3世もそんな一人でした。今回は、ある日突然オランダの王族からイギリス王になったウィリアム3世(ウィレム3世)と、その妻メアリー2世についてご紹介していきます。
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革命続きで大混乱のヨーロッパ!ウィリアム3世即位以前のイギリス
ヨーロッパの北にある島国であるイギリスはエリザベス1世の時代から勢力を強めていました。しかし、勢力を強め過ぎだせいでいつのまにか王様の権力が強大なもので押さえつけれないものへと変貌していました。
1642年 当時のイギリス国王であったチャールズ1世がプロテスタントを弾圧したことが原因でピューリタン革命という市民革命が起き、国王は処刑されイギリスは王政から共和制へと変わります。
しかし、共和制となった後は護国卿であったクロムウェルによる独裁へと変わってしまい、民衆から絶望されたイギリスは王政復古によりまた王政へと戻ってしまいました。
フランスを撃退!オランダの英雄ウィリアム3世
ウィリアムは1650年にオランダ総督ウィレム2世とイングランド王チャールズ1世の王女メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートとの間に生まれました。父であるウィリアム2世はウィリアム3世が生まれる8日前に流行病である天然痘で死んでしまいます。
まだ幼児であったウィリアム3世は総督にはなれず、議会では派閥争いが起こっている中、2度の英蘭戦争、そして1672年フランス軍がオランダに侵攻し、オランダ侵略戦争が始まりました。ブルボン王朝最盛期のフランスが相手となりました。
オランダの大半が占領され、アムステルダムが陥落寸前になると、21歳のウィリアム3世がオランダ総督に就任。オーストリアやスペインと同盟を結びフランスと対抗し、ついには撤退させます。
そしてウィリアム3世率いるオランダは1678年に締結されたナイメーヘンの和約でオランダは領土を保証されます。オランダのピンチを救ったウィレム3世は一躍オランダの英雄となりました。その後ウィリアム3世は、太陽王と言われたルイ14世のライバルとなります。
国王を追い出せ!メアリー2世とウィリアム3世の結婚と名誉革命
話は再び、ピューリタン革命後のイギリス。クロムウェル失脚後、再び王政に戻り、ウィリアム3世のおじであるジェームス2世が国王に就任します。
当時のイギリスはプロテスタントが主流の国でしたが、プロテスタントとは敵対関係のカトリック教徒。なぜカトリック教徒を国王にしたのか・・・そのためジェームス2世はプロテスタントの教徒を政界から追放するなどの横暴をしていました。
一方オランダのウィリアム3世は以前戦いが続くフランスに対抗するため、何度も戦ったイギリスとの関係修復を図り、イギリス国王ジェームズ2世の娘、メアリー2世と結婚します。メアリー2世は母の影響もありプロテスタントを選び、父との関係を悪化させます。
ジェームズ2世もピューリタン革命で散ったチャールズ2世同様、カトリック復帰を画策したため、イギリス議会はウィリアム3世に国王打診をし、イギリスへ上陸。
ジェームズ2世の反撃もなく、国王交代が実現。これが一人の死者を出すことなくイギリスを守った「名誉革命」です。
ウィリアム3世とメアリー2世の時のイギリス
名誉革命によってウィリアム3世とメアリー2世はイギリス国王になりました。ちなみに妻と夫によるイギリスの共同統治はこの時が唯一です。さらにイギリスにおける議会政治が本格的に行われ始めたのもこの時からです。
ウィリアム3世とメアリー2世は1689年に権利の章典という憲法の基礎を作り上げます。この権利の章典にはイギリス国王をトップにする前提で議会と国民に権利と自由が書かれており、この権利の章典によって国王といえども絶対に否定できない今のイギリスにも繋がる立憲君主制が成立しました。
ウィリアム3世とメアリー2世のコインの紹介
今のイギリスの政治体制の原点を作ったウィリアム3世。その功績はコインにも現れています。 表にはウィリアム3世とメアリー2世と〈GVLIELMVS・ET・MARIA・DEI・GRATIA〉(現代訳:神の庇護を受けしウィリアムとメアリー)の刻印が施されています。
2名が描かれたコインも珍しく、名誉革命を経て国王になった二人の歴史が刻まれています。
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