ナポレオンとボナパルティストの物語

ナポレオンアンティークコイン

フランス貨幣を真に代表する硬貨があるとしたら、それは間違いなくフラン・ジェルミナルだろう。

フランス執政政府が革命暦6年に発布したジェルミナル7日法(1803年3月27日、ジェルミナルは革命暦第7月のこと)により、フラン・ジェルミナルは誕生した。金1kgあたり銀15.5kgの換算で、この硬貨は銀5g相当とされた。

 

ナポレオンアンティークコイン

ナポレオン金貨にはナポレオンの肖像が刻まれている。その価値は20フラン。ルイ13世統治時代に導入されたルイ・ドール硬貨に代わり鋳造され、1914年まで流通した。

一般には、単に「ナップ(ナポレオンのこと)」だとか、フランス語で「黄色っぽい」という意味の「ジョネ」と呼ばれることが多かった。ただ、王政復古の間は当然ながら、元のルイ・ドールが使用されている。 


ナポレオン金貨は、約100年に及ぶその流通期間に数多く鋳造された。現存しているものでは極めて珍しい金貨もあれば、もちろんそうでもないものもある。ではここで、1803年から、ナポレオン・ボナパルト権力失墜までの間に鋳造された硬貨の詳細に迫ってみよう。

まずは、この有名な硬貨に名を刻んだ人物についてだ。

激動の時代を駆け上がった、ナポレオンの足跡

ナポレオンアンティークコイン

1769~1792年

1769年8月15日コルシカ島アジャクシオに生まれる。士官学校に入学、軍人となる。
1795~1799年 軍司令官時代
1799~1804年 第一統領時代
1804~1814年 皇帝時代
1814~1815年 エルバ島へ追放。
1815~1815年 百日天下(短期政権奪還)
1815~1821年 セント・ヘレナ島へ追放。1821年5月5日同地にて死去。享年51歳。

大規模な抜本改革を成し遂げた金融政策

ナポレオンアンティークコイン

ご存知の通り、ナポレオンは行動力の男だった。広範囲にわたり行った金融改革もその典型だろう。フランス革命は数多くの内戦をもたらしたが、ナポレオンは積極的にその処理にあたった。多額の負債についても同様だ。 そのみなぎる活力でも有名な彼は、大規模な3つの抜本改革に取りかかる。

バンク・ド・フランス(フランス銀行)の設立

革命期のアッシニア債券は最悪の結果をもたらしたが、当時の総裁政府はほぼ債権の支払いを行っていない。そこからの経済復興を目指して最初にナポレオンがとった政策は、バンク・ド・フランスの設立だった。

革命暦8年の第4月28日(西暦1800年1月18日)がその日で、ナポレオン・ボナパルトが第一統領に任命されてからまもなくのことだ。 

総裁政府のもと、少しずつ経済危機は緩和されたものの、財源の不足が目立つようになる。同時期に銀行家のジャン=フレデリック・ペルゴーにより積立銀行(the Caisse des Comptes Courant※1)が設立されている。

ナポレオンアンティークコイン


ペルゴーは第一統領府に銀行券の発行を求めた人物だ。その目的は貯蓄を増やし、貨幣の流通量を上げることだった。

その結果、ナポレオンは革命暦8年の第5月24日(西暦1800年2月13日)にバンク・ド・フランスを設立することとなる。ペルゴーが設立した積立銀行はこのときにバンク・ド・フランスに合併吸収されている。

初の銀行券は、透かし入りの白い紙の片面のみに黒インクで印刷されたものだった。

政府はアッシニア債券が引き起こした惨状に手を焼いていたため、銀行券の発行は当初制限され、同等の価値の貴金属と引き換えにすることを発行の条件とした。(例:当時500フランの銀行券と2.5kg分の銀貨を交換)

ナポレオンアンティークコイン


払い戻し請求の対応策として、バンク・ド・フランスは、3,000万フランを用意したが、その元手はペルゴーや裕福なブルジョワジーから提供されている。また、第一統領のナポレオン自身も資金を拠出しているのは象徴的だ。

そのときからバンク・ド・フランスがフランスの中央銀行となり、市中銀行はローンの資金を調達するための資金要請ができるようになった。また、借入を促進し、商業・産業の発展も奨励した。

最初の数年はたやすくはなかったが、この新制度は銀行券の信用を徐々に取り戻し、広範囲にわたり銀行券の利用が増加することとなる。

クール・デ・コント(会計監査院)で公共財政の一元管理

皇帝となったナポレオンがクール・デ・コントを設立したのは1807年のことだ。アンシャン・レジーム時代のシャンブル・デ・コント(会計法院)を手本に、中央で一元的な公共財政の管理を行った。

当初は財政管理のみに限られていたが、次第に活動範囲を広げ、起こりうると考えられる不備事項の穴埋めや、金融法令の適切な実施を請け負うようになっている。

ナポレオン帝政時代は皇帝だけが目を通していた年間報告書は、1832年から一般開示、議会への提供が可能となった。

ナポレオンが発行した、フラン・ジェルミナル

ナポレオンアンティークコイン

フラン・ジェルミナルはフランス通貨として1795年に創出され、1フランは10ドゥシーム、あるいは100サンチーム(1ドゥシーム=10サンチーム)とされた。

換算は単純なようだが、1795年から1802年までのフランスの通貨事情は極めて複雑で、大混乱状態であった。ルイ・ドール硬貨、エキュ硬貨などがあらゆる金属で鋳造され、何種類ものフラン硬貨が存在していたのだ。

そこでナポレオンは大規模な通貨改革を行い、「recast」という言葉の通り、鋳造システムの再構築(recast:作り直す、また鋳造の意味も持つ)を完遂したのだ。

その結果、「ジェルミナル」としてフランスで有名な法令が、革命暦6年ジェルミナル(第7月)7日・17日(西暦1803年3月28日・4月7日頃※1)に発令された。フラン・ジェルミナルの誕生だ。

ジェルミナル法は22の条項で構成され、基本原則と一般規定が定められている。その内容は、
「銀5g、純度9割、貨幣単位として、その名をフランとする」というものだ。

そのため、銀は基準として用いられる一次標準物質となり、通貨の額面価格と金属組成の価値が合致した銀本位制となる。これにより政治家により貨幣価値が定められることはなくなった。

注意:歴史研究家の間では意見が分かれる。当時の貨幣制度は複本位制(金・銀を標準とする)の原則に基づいているという意見もあれば、単一の銀本位制だったという意見もある。

鋳造された5フラン、2フラン、1フランの硬貨の数は約9億万枚だ。さらに、ルイ・ドール硬貨の流通を完全に終わらせることを大きな目的として、20フラン、40フラン相当の金貨をそれぞれ2種類ずつ導入した。これらが有名なナポレオン金貨だ。

残りの条項は、当時まだ流通していた古い貨幣の廃貨規定を確立するためのものだ。以下がその一部である。

「革命歴6年ジェルミナル14日法は、その公布の日をもって有効とし、以下の内容を定めている。欠損した、または変造された24リーブル、48リーブルトゥルヌワ金貨は、重量換算を例外として、支払いに用いることはできない。

2-欠損した6リーブルトゥルヌワ銀貨も同様とする。

3-前条で名を挙げられた硬貨は再鋳造のため造幣局に届けるものとする。その際、一切の鋳造手数料を適用することなく、新硬貨との交換を行うものとする。」

これは、1805年に出版された「商業、銀行、生産、関税、漁業、運送、立法、経営管理に関する汎用辞典」の抜粋翻訳である。

さらに、ジェルミナル24日、バンク・ド・フランスに銀行券発行の実施権利を付与する法令が公布される。最少額面価格は500フランだ。

紙幣の信頼回復を図ったバンク・ド・フランスの働きによってフラン・ジェルミナルは通貨として強くなった。これはまさに通貨改革大成功を示しており、この貨幣は1914年まで流通している。

法令公布後、景気は少しずつ回復し、インフレは収束、強い通貨と信頼を取り戻すこととなった。公布の1年後には、1738年以来初めて国家予算の帳尻が合うようになっている。

最初はその効果が出るまで時間がかかったとしても、歴史的に、そしてその継続期間の長さから見ても、ナポレオンの貨幣改革は素晴らしい見本だ。100年以上流通したフラン・ジェルミナルは、第一次大戦のせいで終わりを迎えたものの、見事に成果を出したといえるだろう。

ルイ・ドールと呼ばれた「ナポレオン金貨」の鋳造

ナポレオンアンティークコイン

ナポレオン金貨は導入時、それまでと同じようにルイ・ドールと呼ばれた。王政復古の間は、再びルイの名で呼ばれてもいる。「ナップ」、「ナポレオン」の愛称がつく第二帝政期の前のことだ。 第二帝政期から20フラン硬貨はすべて、1914年までその名前のまま呼ばれている。100年と少しの間に鋳造された数は5億万枚以上に及んでいる。

ナポレオン金貨以前に鋳造された金貨は、1792年の24リーブルのルイ金貨や1793年のルイ16世が描かれた金貨だ。1793年には国王の肖像のない硬貨も作られている。

フラン・ジェルミナル導入の法令に続いて、ルイ・ドール金貨に変わり、2種類の金貨が作られることとなる。20フラン硬貨(ナポレオン)と40フラン硬貨(ダブルナポレオン)だ。

硬貨はそれぞれ純度90%の金、純度100%の銅で鋳造されている。 法令では、20フラン硬貨157枚で1kg、40フラン硬貨77.5枚で1kgと定められた。

それぞれの硬貨は1枚あたり、重さ6.4516g、直径21mmである。

合金硬貨の導入決定は、現実的な選択だった。摩耗によりすり減ることが少なくなり、硬貨が軽くならないようにしたのだ。

第一帝政シリーズ

ナポレオンアンティークコイン

最初に鋳造された硬貨にナポレオン・ボナパルト第一統領の肖像が採用されたのは言うまでもないだろう。革命を連想させるフリジア帽のようなものは取り入れられていない。

肖像には、ピエール=ジョセフ・ティオリエによる署名が刻まれ、その後ナポレオンによりフランス彫刻師長と名付けられた。

翌年、その当時の事象が反映され、統領から皇帝の肖像に変わる。1806年には、ジャン=ピエール・ドローが硬貨の彫刻師となっている。

革命歴6年、8年、14年に鋳造された硬貨は極めて貴重だ。

表面は「統領」から「皇帝」に、「フランス共和国」から「フランス帝国」に変わっていることに注目してほしい。 月桂樹のリースをかぶる皇帝を描いた「Tête laurée」(月桂冠をいただく頭像)のデザインは、1809年からの権力の絶大さを如実に表している。 ただし、皇帝の紋章は刻まれていない。

ナポレオン統治下に鋳造されたナポレオン金貨は7種類だ。

分かりやすいように、ここでナポレオン金貨の完全攻略リストを紹介しよう。

ボナパルト第一統領

鋳造年:革命暦6年(西暦1803年)、革命暦7年(1804年)
発行枚数:1,046,506枚

表面には「Bonaparte Premier Consul」(ボナパルト第一統領)、裏面には「République Française, 20 Francs, An XI」(フランス共和国、20フラン、革命暦6年)の文字、同じく裏面にパリで鋳造されたことを示す鋳造マークのAが打刻されている。また縁には「Dieu protège la France」(神がフランスを守護したまう)と刻まれている。彫刻師はピエール=ジョセフ・ティオリエで、表面に彼の署名が見られる。

ナポレオン1世、リースなし

鋳造年:革命暦7年(西暦1804年)
鋳造枚数:428,143枚

表面には「Napoléon Empereur」(皇帝ナポレオン)、裏面には「République Française, 20 Francs, An 12」(フランス共和国、20フラン、革命暦12年)、パリの鋳造マークのAとある。 縁には「Dieu protège la France」(神がフランスを守護したまう)と刻まれている。彫刻師はピエール=ジョセフ・ティオリエで、表面に彼の署名が見られる。

ナポレオン1世、無帽

鋳造年:革命暦8年(西暦1805年)、革命暦9年(1806年)
鋳造枚数: 約676,000枚(sources disagree)
表面には「Napoléon Empereur」(皇帝ナポレオン)、裏面には「République Française, 20 Francs, An 14 」(フランス共和国、20フラン、革命暦14年)、パリの彫像マークのAが見られる。縁には「Dieu protège la France」(神がフランスを守護したまう)と刻まれている。彫刻師はジャン=ピエール・ドローで、表面に彼の署名が見られる。

 

ナポレオン1世、無帽、1806年・1807年

ナポレオンアンティークコイン
鋳造年:1806年
鋳造枚数:996,367枚
ダブルナポレオン40フラン硬貨は、このバージョンの硬貨全体のうち59,000枚が鋳造されている。表面には「Napoléon Empereur」(皇帝ナポレオン)、裏面には「République Française, 40 Francs, 1806 」(フランス共和国、40フラン、1806年)、トリノの鋳造マークのUが見られる。縁には「Dieu protège la France」(神がフランスを守護したまう)と刻まれている。彫刻師はジャン=ピエール・ドロー。表面に彼の署名がある。


デザイン変更後バージョン「grosse tête」(頭像拡大版)

ナポレオンアンティークコイン
鋳造年:1807年
鋳造枚数:594,332枚
表面には「Napoléon Empereur」(皇帝ナポレオン)、裏面には「République Française, 20 Francs, 1807 」(フランス共和国、20フラン、1807年)、パリ鋳造を表すAの鋳造マークが見られる。 縁には「Dieu protège la France」(神がフランスを守護したまう)と刻まれている。彫刻師はジャン=ピエール・ドロー。表面に彼の署名が見られる。


ナポレオン1世、月桂冠をいただく頭像バージョン


鋳造年:1807年、1808年
鋳造枚数:1,720,451枚
表面には「Napoléon Empereur」(皇帝ナポレオン)、裏面には「République Française, 20 Francs, 1808 」(フランス共和国、20フラン、1808年)、トリノの鋳造マークのUが見られる。縁には「Dieu protège la France」(神がフランスをお守りくださる)と刻まれている。彫刻師はジャン=ピエール・ドロー。表面に彼の署名が見られる。

 

ナポレオン1世、月桂冠を頂く頭像 「Empire Français」(フランス帝国)バージョン

ナポレオンアンティークコイン

鋳造年:1809~1815年
鋳造枚数:13,833,717枚
表面には「Napoléon Empereur」(皇帝ナポレオン)、裏面は「République Française」(フランス共和国)から「Empire Français」(フランス帝国)に変わっている。また、「 20 Francs, 1810 」(20フラン、1810年)、パリの鋳造マークのAが見られる。縁には「Dieu protège la France」(神がフランスを守護したまう)と刻まれている。彫刻師はジャン=ピエール・ドロー。表面に彼の署名が見られる。

これら導入初期のデザインは1914年まで続いた。 王政復古期に鋳造されたルイ18世の肖像が描かれた硬貨もある。縁の銘刻は、ラテン語を再び用いて、「DOMINE SALVUM FAC REGEM」(主よ、王を救いたまえ)となっている。

また、王家の紋章も裏面に復活させており、ピエール=ジョセフ・ティオリエも彫刻師に復帰している。フランスのモットー、「Liberté, égalité, fraternité」(自由、平等、友愛)は、1908年になるまで、その姿を見せていない。



だがそれは、ナポレオン失脚後の、また別の物語だ。