【お札からみる日本の歴史】「名古屋 藩札 尾張藩徳川家 配符五分分銀札」とは(ショーケースオークション1より)

こんにちは!アンティークコインギャラリアスタッフです。

2025年1月25日(土)13時から開催の紙幣オークション、皆さんもうロットはご覧いただけましたか?

今日はその中でも、興味深い1点『米切手』を徹底解説します!

歴史好きの方、必見です!

▼出品物のURLはこちらから!
https://www.biddr.com/auctions/galleria-auctions-tokyo/browse?a=5345&l=6558002

今回出品されている「ロット92 名古屋 藩札 尾張藩徳川家 配符五分分銀札」。

 

お札コレクターの中でも、このお札に注目したことのある方は中々のマニアです!

たった1枚のお札でも、実はたくさん「歴史のヒント」が詰め込まれています。
それはただこのお札を眺めているだけではわからないモノ。
知れば知るほど奥が深い歴史の世界。
そこには時に、自分の知っている知識と結びついた瞬間の悦びだったり、知的好奇心が満たされる興奮が隠されています。
今日の内容はとってもボリューミーですが、このお札について何も知らないという方でも、明日誰かに話したくなるような「お札からみる日本の歴史」を一緒に追いかけていきましょう

 

注)ここでは「名古屋藩」と「尾張藩」をほとんど同じ意味で使っています!

 

お札の概要

まずはこのお札にどんなことが書かれているのか読んでみましょう。

 

<表>

「一 米味噌酒塩油肥物 代銀五分分 右御預り置申候 午七月(印)」

現代語訳: 一つ 米・味噌・酒・塩・油・肥料 代銀 五分ぶん 右の通り、確かにお預かりいたしました 午年七月

 

<裏>

「此配符他御支配江御差贈之儀ハ御断申候 引替之儀者名古屋農方會所ニて取扱申候 清須御管下 山田半三郎(印)」

現代語訳:この配符その他を御支配(=名古屋藩)に送るのはお断りします 引き換えについては名古屋の農方会所にてお取り扱いします 清須御管下 山田半三郎(印)」

▲お札の一部を拡大
この時代の「分」の書き方には「卜」と書いて「分」と読ませるのがポイントです!

 

▲発行した山田半三郎は清須を管轄していました。

 

5つの注目ポイント!

最初はどこに注目すればよいかも分からないのですが、気になる5つのポイントを解説します。

1:銀五分相当額の米や味噌を預かったこと

米だけでなく生活必需品の味噌や塩が書き上げられています。
いくつか物品が挙げられた有名な例として「五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)」があります。この法令は幕末に出されたものです。
開国した影響で生糸・雑穀・水油・蝋・呉服の5品目がどんどん輸出に回されてしまい、江戸では物価が高騰しすぎてしまったため、幕府がこの五品については必ず江戸に一度は回すようにさせたものです。
大都市だった江戸では水油雑穀などの生活必需品に加えて、生糸や呉服も重要だった一方で、名古屋地域では生活必需品が書き上げられているところが興味深いです。

 

2:この札は引き換えて”現金化”できること

換金することが前提だったということは、誰かの信用の元に金や銀の現物を、誰かが大量に蓄えていないと成り立ちません。

 

3:引き換えるときは藩ではなく「農方会所」という役所にいかなければいけないこと

普通の「藩札」であれば、引き換えはそれぞれの藩が担っていたはずですが、ここではわざわざ役所で引き換えさせています。
しかもこの書き方だと、お札を出しているのは名古屋藩なのに、名古屋藩がわざわざ他のところで替えさせていることになります。
三店方式のように、このことにも何かの意味があるのでしょうか?

 

4:このお札は午年の7月に発行されていること

午7月とだけ書いてあるので、正確な年号を知るためには全ての午年の中から、可能性が高い年号を割り出さないといけません。
この紙一枚からどうやってそんなことを突き止めればよいのでしょうか。
途方もない作業ですが、実際には色んな方法を試します。
前後の時系列が分かるような手紙や、日記や、法令や、時代背景のヒントをたくさん突き合わせて明らかにしたり、その紙の素材を調べていつ頃作られた紙なのかを探ったりもします。

 

発行されたのはいつ?

今回のお札は既に研究の結果「明治3年」であることが分かっています。
古紙幣の収集家である安藤榮氏は、尾張藩のお札を大量に収集して、似ている紙幣をコレクションし、江戸時代の古文書を丁寧かつ大量に分析した上で、なんと時代順に整理してみせました。
その結果、このお札が明治3年のものであることを改めて論証しています。

▲安藤榮『尾張藩の米切手』あるむ社、2020年

でも、明治3年といえば、旧20円金貨が発行された年でもあります。時代は既に明治維新の後、この翌年には廃藩置県で「藩」そのものが廃止されるはずの頃です。なぜそんな時代に「藩札」が出されたのでしょうか?

 

実はこのお札、ロットの名前でも「藩札」ということになっていますが、正確には「限りなく藩札と同じような役割で使われた、でも厳密には藩札じゃないお札」です。そのためこのお札は「米切手」とも呼ばれています。

 

名古屋藩の『米切手』とは?

この『米切手』とは一体どのようなものなのでしょうか?

 

当時、年貢として納められた米は、藩が競売にかけて現金化していました。その時いちいち米を商人に渡すのは重いしかさばるしで不便なので、代わりにこの『米切手』を渡し、後で切符とお米を交換するための「手形」として作られていました。

 

▲当時の米は「天下の台所」大坂堂島の米市場に集められていました

 

それが寛政の時代に、少し意味が変わっていきます。

 

尾張藩は徳川家の一門なので強力な藩として見られることも多いですが、実際には藩主徳川宗春が、暴れん坊将軍徳川吉宗に蟄居を命じられるなど、幕府と反りが合わないことも多々あったほか、参勤交代も重くのしかかっていたので、江戸時代を通じて財政難に悩まされていました。藩札を発行して、一時的に金を確保し、財政難を乗り切ろうとしたこともあったのですが、江戸幕府から「お札出せるほど財政の担保がないのでは」と突きつけられ、金札発行の許可が降りませんでした。

 

さて、藩札の発行もできなかった尾張藩が、この局面を乗り切るために使ったのが『米切手』でした。幕府が許可してくれなかった「藩札」は、藩の信用に基づいて「お札と正金」を交換するものでした。しかし、藩の信用に基づいて出された『米切手』ならどうでしょうか。『米切手』は、「お米とお札」を交換した後、「このお札と代金」を交換することができます。ほとんど屁理屈のようなこの『米切手』は、幕府から一定の条件のもとで許可が降り、寛政4年(1792年)、尾張藩はこの『米切手』の使用を始めました。

▲尾張藩の米蔵の様子。かつて秀吉が小田原攻めをした際、尾張を治めていた織田信雄も加勢したが、兵粮米の蓄えがなく難儀をしていた。副島正則が国主だったとき、堀川が舟運の便にも良いということで、この三ツ蔵と呼ばれる蔵が建てられ、尾張藩の大倉庫として賑わったという。

 

『米切手』の問題点と「農方会所」の設立

尾張藩がこの『米切手」を発行する前から、藩の中では核心を突いた反対意見が噴出していました。『米切手』は、藩の信用があるうちはお札として流通するだろうけども、藩の信用が低下してしまうと、みんな使うのを恐れて『米切手』を「正金」に替えてしまうでしょう。そうすると富裕層はたくさん金をキープして、貧しい人はさらに貧しくなり、最悪の場合、藩の外にいる商人へと金が大量に流出してしまいます。江戸時代の人たちは、まるで昭和恐慌を引き起こした取り付き騒ぎを予言するかのように、この『米切手』の経済学的な破綻のシナリオを見抜いていました。

 

事実、この『米切手』制度は、はじまってすぐにお札の価値が低下しはじめ、インフレを引き起こし、何度も機能不全に陥りかけています。名古屋藩は交換できるだけの金をなるべく確保しておこうと必死に対応しますが、常にギリギリの状態が続いていました。

 

そこで、藩は自分たちで金を確保しておくのをやめて、富裕な農民層や商人層を集め、彼らに金を調達させ、『米切手』と「正金」の交換を請け負わせることにしました。これが「農方会所」と「商方会所」です。「農方会所」はロット92のお札にも出てくる役所の名前ですね。こうすれば藩は、金との交換に必要な事務的労力や、金を確保しておく莫大な資本力の問題を帳消しにできます。藩が金との交換を保証してくれない点も、他の藩札とは異なる特徴の一つです。

 

ですが、藩が自ら金の交換を降りて、民間の役所に委託したらどうなってしまうでしょうか。このことは『米切手』の信用をさらに低下させることにつながってしまいました。『米切手』の価値が低くなれば、さらにインフレを引き起こし、藩はいよいよ『米切手』制度を維持できなくなっていきます。こうして名古屋藩は、江戸時代後期から幕末にかけて、『米切手』制度の廃止を段階的に進めていきました。

※実際な価値の下落がどのように現れるかについて補足すると、切手を正金に両替する際の両替手数料(添銀)がどんどん値上がりしていくという形で紙幣の価値は下落していきました。正金に相当する額に交換するには、お札と銀が必要だったのも興味深い点です。

 

▲愛知県公文書館蔵「名古屋市吉田家文書」 尾張藩が正金の「融通筋」について苦心している様子が浮かび上がります。

 

さて、江戸時代に廃止されたはずの『米切手』ですが、ロット92のお札が明治3年に復活しているのは一体どういうことなのでしょうか?ここでは『米切手』に、さらなる変化が生じているのです。

 

明治時代の『米切手』

明治維新が起きた後、新政府は新しい統一された通貨制度を作ろうとします。全国一律、同じ基準の通貨を普及させなければいけません。その時、各地で作られていた「藩札」の類は、新政府によって少しずつ回収されていきました。


しかし、新政府も一気に全国にいきわたるだけのお札を作ることはできません。物理的な限界がどうしても避けられませんでした。すると、各地で少しずつ「小額紙幣が足りない」という問題に直面するようになります。いくら新しい通貨で統一したくても、お札がないのでは不便でなりません。しかも、江戸時代と違って税金は米ではなく金で納めるように変わっていくため、小額紙幣がある程度出回らないと、経済活動がままならないという事態に陥っていたのです。


そこで復活したのが『米切手』です。『米切手』は信用の低下により、価値が下がっていてくれたおかげで、かえって小額紙幣としての取り回しに便利でした。中央政府が新通貨を流通させようとしたことで、地方に生じたこのような問題に対して、江戸時代から続く『米切手』の制度と「農方会所」という役所のシステムを使って、名古屋藩は乗り切ろうとしたのです。

もちろん地方で新たにこんな紙幣を作ってしまうことは、統一された通貨を作ろうという社会の流れに逆行しているのですが、それがむしろ社会のシステムを円滑にしてくれていたというのは、とっても興味深い事実ですよね。

名古屋の『米切手』からわかる日本の歴史

というわけでここまで、明治時代に出された「藩札」、名古屋藩の『米切手』をご紹介してきました。たった1枚のお札ですが、深堀りしていくとその時代のことが、こんなにも多く引き出せるのです。
そんな歴史の生き証人とも言える過去の紙幣を、手に入れられるのがコレクターの楽しさの一つです。
ぜひご入札お待ちしております!

 

主要参考文献
・愛知県史編さん委員会編『愛知県市』通史編5近世2、愛知県、2019年。
・安藤榮『尾張藩の米切手』あるむ、2020年。
・名古屋大学附属図書館編「[54]配符(代銀 1 匁・ 5 分)」『名古屋大学附属図書館2010年春季特別展(地域貢献特別支援事業成果報告)尾張の古都 清洲と濃尾地域ー 名古屋開府400年記念 ー』名古屋大学附属図書館・附属図書館研究開発室、2010年。 

 

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