1912年ブルガリア独立記念100レヴァ金貨、初代国王フェルディナント1世が独立に賭けた想いとは?
1912年 ブルガリア フェルディナント1世 独立記念 100レヴァ金貨は、1908年のブルガリア王国独立を記念して製造された金貨です。独立へと踏み切った国王フェルディナント1世は、何に迷い、何に悩み、そしてこのコインにどのような想いを託したのか。フェルディナント1世の治世を追いかけながら、ブルガリアの文化や歴史をご紹介していきます。
ブルガリア フェルディナント1世 100レヴァ金貨
基本データ
コイン名 | ブルガリア フェルディナント1世 100レヴァ金貨 (独立宣言記念) |
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通称 | ブルガリア フェルディナント1世 100レヴァ金貨 |
発行年 | 1912年 |
国 | ブルガリア |
額面 | 100 Leva |
種類 | 金貨 |
素材 | 金 |
発行枚数 | 6,000枚以上 |
品位 | Gold(.900) |
直径 | 35mm |
重さ | 32.2580g |
統治者 | Ferdinand I (Фердинанд I) (1887-1918) |
デザイナー | Rudolf Marshall |
カタログ番号 | KM# 34, Fr# 5, Monev# 40, 40 I |
表面のデザイン | 右向きの王の頭部とキリル文字のレジェンド、彫刻師の名前 |
表面の刻印 | ФЕРДИНАНДЪ I ЦАРЬ НА БЪЛГАРИТѢ(ブルガリア君主フェルディナンド1世) R.MARSHALL |
裏面のデザイン | 月桂樹の枝と小麦の枝に挟まれた王冠をかぶった紋章、キリル文字のレジェンド、年号、彫刻師の名前 |
裏面の刻印 | ЦАРСТВО БЪЛГАРИЯ(ブルガリア王国) 100 ЛЕВА 1912 22∙СЕПТ∙1908 R.MARSHALL |
エッジのタイプ | レタリングエッジ |
エッジの刻印 | БОЖЕ ПАЗИ БЪЛГАРИЯ(神よブルガリアを守り給え) |
ブルガリア 独立記念 100レヴァ金貨とは
表面のデザイン
キリル文字でレジェンドが刻まれたこのコインが、1912年 ブルガリア フェルディナント1世 独立記念 100レヴァ金貨です。表面の肖像がブルガリア初代国王となったフェルディナント1世です。レジェンドにはブルガリア語で「Фердинанд I(フェルディナント1世)」「царь на българия(ブルガリアのツァーリ)」と書かれています。フェルディナント1世の豊かにたくわえられたあごひげが特徴的です。
裏面のデザイン
裏面にはブルガリアの国章と共に、100レヴァの額面がデザインされています。レジェンドには「Царство България(ブルガリア王国)」の文字と共に、当時のブルガリアの国章が、小麦と薔薇に囲まれています。国章のライオンは勇敢さと気高さの象徴だと言われています。ライオンの背景には盾と、その頭上には王冠があしらわれたデザインです。
刻まれた年号の謎
このコインは1912年に発行されたコインですが、1908年9月22日(ユリウス暦)と刻まれています。「1912」の文字は、国章に下に小さく刻まれているに過ぎません。これは一見不思議なことです。1908年はブルガリアが独立した年ですが、それを記念するなら翌年には金貨を出すことも出来たかもしれません。にもかかわらずこのコインは、発行までに4年の月日がかかった計算になります。一体なぜなのでしょうか。
もちろん、一朝一夕でコインは作れないという事情もあったかもしれません。ですがそこにはさらに、ブルガリアの国王となったフェルディナント1世が経験した君主としての葛藤と、激動の時代背景がありました。今回はこのコインにまつわる国王フェルディナント1世の生涯を追いかけてみましょう。
ブルガリア国王フェルディナント1世とは
歴史上よく知られている「フェルディナント1世」は3人います。1人は16世紀の神聖ローマ皇帝のフェルディナント1世、もう1人は19世紀のオーストリア皇帝フェルディナント1世、そしてここでご紹介するのは、20世紀の「ブルガリア国王フェルディナント1世」です。
▲ブルガリア国王フェルディナント1世
このフェルディナント1世は、「雲上の女神」で有名なオーストリア皇帝フランツヨーゼフ1世の「友人」だったオーストリア人女優、カタリーナシュラットとも懇意の関係だったとされます。ブルガリアのフェルディナント1世にはオーストリアと深い縁があります。彼はオーストリアのウィーンで生まれ、第一次世界大戦ではオーストリア側として参戦しています。
▲並んで歩くオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とカタリーナ・シュラット
少しだけ豆知識のご紹介です。ブルガリアはヨーグルトのイメージがありますが、実はキリル文字発祥の地ということは、日本ではあまり知られていません。
このコインが記念する1908年ブルガリア独立宣言の後、フェルディナントは君主の呼び名を「ツァーリ(君主、国王)」に変更しました。
「ツァーリ」といえばロシア語でも「皇帝」を意味する単語ですが、キリル文字はブルガリアで生まれた後、アレンジを加えてロシアを含む周辺地域に広がっていったのです。
フェルディナント1世はその治世の間、青年トルコ革命、2度のバルカン戦争、そして第一次世界大戦と、数多くの難題にぶつかりました。
今回は、フェルディナント1世が経験したその激動の時代を追いながら、どのように独立宣言へと至ったのかご紹介します。
課題だらけのブルガリア公就任劇と摂政スタンボロフの奔走
19世紀の終わり、ブルガリアはオスマン帝国の属国で、政治的にはロシアの強い影響下にありました。そのためフェルディナント1世の先代にあたるブルガリア公アレクサンダル・バッテンベルクは、ロシア皇帝の意向ひとつで退位させられています。
しかし、ブルガリアは完全にロシアの言いなりになったわけではありません。当時勢いを増していた政治家ステファン・スタンボロフは、摂政としてブルガリアの実権を握りながら、新しい公の候補を探していきます。大国ロシアと緊張関係にあるブルガリアにとって、それは簡単な候補者探しではありませんでした。
そこに、ヨーロッパの各地に婚姻関係を持つザクセン=コーブルク=ゴータ家から、君主になることを検討する人物が現れます。
彼こそブルガリア公フェルディナント1世だったのです。
ただ一つ彼が懸念していたのは、ロシアがフェルディナント1世を君主として認めるかどうかでした。彼らは奔走して一度はロシア側の確約を取り付けましたが、フェルディナント1世がブルガリアに入ると、手のひらを返して確約を取り下げ、ハシゴを外された形になります。ロシアと揉めたくない国際社会は、このロシアの選択を追認しました。
▲ステファン・スタンボロフは今でもブルガリアでは20レヴァ紙幣の肖像になっています
国民に認められないフェルディナント1世
国際社会に認められないままブルガリア公になったフェルディナント1世は、国内にも問題を抱えています。当時のブルガリアではブルガリア正教が一般的でしたが、フェルディナント1世は伝統的なカトリックでした。
フェルディナント1世は自分自身を新しい君主としてブルガリアの国民たちに認めさせる必要があり、そのためには巧みな政治力を持つスタンボロフが頼るしかありません。
スタンボロフは「フェルディナント1世に後継が産まれれば、彼の君主としての地位も安定するだろう」と考えていました。そしてようやく見つけた王妃の候補者がブルボン=パルマ家の王女マリア・ルイーザです。ただし、彼女らは結婚の条件として「生まれた子供をカトリックとして育てること」をつきつけます。
▲結婚当時のようす
当然、このことはスタンボロフたちの頭を大いに悩ませます。しかも当時の憲法では「ブルガリア公はブルガリア正教会に属していなければならない」と決められていたのです。当時の憲法学者の中には、カトリックだったフェルディナント1世自体を認めない声もあったため、問題はさらに深刻でした。
▲ブルガリアの首都ソフィアにあるブルガリア正教会の大聖堂
そこでフェルディナント1世とスタンボロフは、なんとブルガリアの憲法を変えることでこの事態を解決します。そして2人の間に息子ボリスが産まれると、国民の熱狂で事態をうやむやにし、何とか乗り切ったのでした。しかし、フェルディナント1世が着実に力を増し、スタンボロフも全盛期を過ぎてくると、徐々に2人は対立していくようになりました。やがてスタンボロフは、1895年に反対派勢力に殺害されてしまったのでした。
翌1896年、ついにフェルディナント1世は国際社会の承認を得ます。フェルディナント1世がロシアの承認を得られた背景には、オスマン帝国の弱体化がありました。もしオスマン帝国が滅びれば、その利権をブルガリアやロシアで分け合うことになったでしょう。その時、ロシアにとってもブルガリアとの関係を改善することは悪い話ではなかったのです。
▲フェルディナント1世の妃マリア・ルイーザ。1899年に亡くなってしまった
1908年、ブルガリア独立宣言
1908年の「青年トルコ革命」は、ブルガリアにとっても大きな転機となりました。この革命政府は「オスマントルコの領土」を統一する、と宣言します。
これはブルガリアのフェルディナント1世や、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世にとって認めがたいものでした。この「オスマントルコの領土」は、ブルガリアにとっての「南ブルガリア」やオーストリアにとっての「ボスニア=ヘルツェゴビナ」を含んでいたからです。これに激しい怒りを示したフェルディナント1世は、ブルガリアの古都タルノヴォで、ついに独立を宣言するのでした。
▲独立宣言当時のようす
しかし意外にも、この独立宣言は国民に賞賛されませんでした。それまでの数十年間、フェルディナント1世は自分好みの人選で事実上の独裁政治を行ってきました。経済政策にも力を入れていましたが、外国からは融資が得られず、国民たちへの税金は増えるばかりで、ブルガリアの未来は暗礁に乗り上げていました。
未来に希望が見えないと、政治家たちも長期的な有効策を打たなくなり、自分たちの小さな利権を守ることを優先するようになってしまいます。その上、ブルガリアが実質的に支配していたマケドニアの地域も、この頃事実上失っていました。
マケドニアを失ったままの「独立宣言」を国民は非難したのです。
ですが、フェルディナント1世も、ブルガリアの君主としての責務に向き合うしかなかったのでしょう。1911年、独立宣言を出した古都タルノヴォで大国民議会を開き、フェルディナント1世を「ブルガリア国王」として認める決議がなされました。この決議によってフェルディナント1世は、国王の一存で外交権を行使できるようになりました。
100レヴァ金貨が発行されたのはこの決議の翌年、1912年のことです。自身が国王になった年ではなく、ブルガリアが国として独立宣言をした「1908年」を記念して金貨を発行したところに、ブルガリアに賭けるフェルディナント1世の想いが刻まれているようです。
▲独立宣言が発されたブルガリアの古都タルノヴォ
ヨーロッパの火薬庫
これ以降ブルガリアは、領土的な野心を隠すこともなく膨張を続けます。1912年の第一次バルカン戦争ではバルカン諸国と同盟し、トルコと争います。この戦いに勝利したバルカン同盟でしたが、ブルガリアはその後の領土交渉にも異を唱え、さらに第二次バルカン戦争へと突入していくのでした。
一国を背負う君主として、フェルディナント1世は複雑な社会状況に挑み続けましたが、それは独裁や腐敗とコインの表裏になっていました。民族的な対立や大国の圧力の中で発したブルガリアの独立宣言。その記念金貨には激動の時代を生きたフェルディナント1世の歴史が凝縮されているのでした。
フェルディナンド1世の晩年、自然科学者として
▲晩年のフェルディナント1世
第一次世界大戦で降伏した後のフェルディナント1世は、息子のボリス3世に国王の地位を譲ります。その後、ザクセン=コーブルク=ゴータ一族の宮廷所在地だったコーブルク(現在のドイツバイエルン州北部)へ移りました。結果的に彼はここで、君主として活躍した31年間とほとんど同じ期間を、このコーブルクで過ごすことになります。
表舞台から姿を消した彼はここで自然科学の研究に没頭するようになります。植物や昆虫の採集を始めた彼は、鳥類の研究も精力的に行いました。調査団を率いて各国の鳥を持ち帰ると、鳥類を飼育するために100基のケージを用意したと言います。その研究の功績は甚だしく、バイエルン州屈指の大学であるエアランゲン大学から栄誉学位を授与されました。
1948年、30年間隠棲生活を過ごしていたコーブルクのアウグスティン宮殿で、フェルディナント1世は87年の生涯を終えました。聖アウグスティン教会には、今もフェルディナント1世が、彼の家族と共に安らかに眠っています。
ブルガリア フェルディナント1世 100レヴァ金貨の価格推移
1912年当時に発行されたオリジナルと、その後発行されたリストライクが存在します。他のリストライクが発行されているコイン同様、オリジナルの方が断然人気ですが、手に入りやすい価格のリストライクのハイグレードもおすすめです。
オリジナル
MS61 Prooflike
2024年5月8日に$9,300で落札。
MS61 Deep Prooflike
2024年8月15日に$15,000で落札。
リストライク(発行は1967年〜1968年)
PR68 Cameo
2024年8月16日$4,500で落札。
PR69 Deep Cameo
2024年8月16日$6,600で落札。
「人生を賭けて『ブルガリア王国』の独立を掲げたフェルディナンド1世の100レヴァ金貨」
世界大戦の前夜、混迷極まるヨーロッパの中で、『ブルガリア』を背負うことを決めたフェルディナンド1世。彼はオスマン帝国・ロシアという大国と対峙しながら、ブルガリアに様々な改革を行ってきました。
彼は国王として即位した1912年、「自分の即位を記念した金貨」ではなく、「ブルガリアの独立を記念する金貨」を発行しました。それが「ブルガリア 独立記念 100レヴァ金貨」です。国王としての誇りをたたえた横顔に、フェルディナンドの眼差しがヨーロッパの行く末を見据えているようです。ブルガリアのキリル文字で刻まれたレジェンドは、他の金貨では味わえない逸品。オークションでも高グレード品は希少のため、お見かけの際はチェックしたい1枚です。
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