初期のアメリカ合衆国コイン − テンプルトン・リードのゴールドコイン

2020年7月8日 PCGSによる
ジョシュア・マクモロウ・ヘルナンデス(PCGS)

 

アメリカ合衆国が誕生してから数十年間に民間事業者によって鋳造されたゴールドコインは、常にコイン収集家を魅了してきました。これらのコインは、米国造幣局(United States Mint)によって作られたものではありませんが、そのコインが流通した地方の経済システムにとって不可欠なものでした。そして、1840年代後半のカリフォルニア・ゴールドラッシュで有名なアメリカ西武では多くの人が個人事業として金を鋳造しましたが、南部で起きたゴールドラッシュとそこで個人により鋳造されたコインについて知る人は少ないのです。

 

アメリカ南部のジョージア州北部やノースカロライナ州北部では、1820年代後半に金が大量に発見されました。 アメリカ中から数万人もの人々が金を奪い合うために急襲し、ゴールデン・ホットスポットの周りの街は一夜にして盛り上がりました。ジョージア州とノースカロライナ州のゴールドラッシュにより、1838 年にはジョージア州のダロネガとノースカロライナ州のシャーロットにアメリカ初の米国造幣局支店が設立されました。

 

しかし1830年代後半に南部で連邦政府による金貨の生産が開始される以前は、新しく選鉱され造幣された南部の金は地元で分析され、精錬され、民間事業者(private venture)によって造幣されていました。

 

この民間事業者により造幣された金貨は、金貨を欲しがった地元の人々に人気がありました。米国造幣局は1795年より金貨を鋳造してきましたが、ジョージア州、ノースカロライナ州、テネシー州など、金に飢えた何千人もの開拓者たちが店を構えていた場所での需要を満たすには、十分ではありませんでした。この需要を満たすため、進取的な民間の造幣起業家が独自の金貨を鋳造し、流通するお金として提供し始めました。

 

これらの起業家のうちの1人が、ジョージア州の宝石商であり鉄砲工でもあるテンプルトン・リード(Templeton Reid)です。彼は1830年の7月から10月まで鋳造を行いました。彼が打ったコインの正確な数は不明ですが、2.50ドル(クゥオーター・イーグル)、5ドル(ハーフ・イーグル)、10ドル(イーグル)通貨を造幣していました。彼が生産したコインの量は莫大な数だと言われており、1831年のフィラデルフィア官報によればリードは200,000ドル相当の金貨を生産したことを示唆しています。しかし、貨幣学者のデクスター・C・セイムール(Dexter C. Seymour)の研究によると、実際の生産量はより少なく、合計で約1000個のクォーター・イーグル、300個のハーフ・イーグル、250個のイーグルが造幣されたのではないかと指摘されています。

 

しかしながら、時間が経つにつれてコインに含まれる貴金属の含有量のため大部分が溶けてしまい、コイン収集家が研究したり収集したりできるものはほとんど残っていません。

 

また、金自体の純度も、混乱を引き起こしている原因となっています。リードはコインの製造に使用した金を正確に分析しておらず、その代わりに自然界に存在するままの他の金属と混ざった状態で回収された実質上の金から金貨を鋳造していました。

 

コイン収集家であり作家であるウォルター・ブリーン(Walter Breen)によると、リードの1830年産コインに含まれる金は約.942の純度であり、連邦政府が造幣する.917の金純度のコインよりも高い純度を持っていました。リードのコインは金の純度がより高いこと、また連邦政府発行のコインよりもわずかに物理的なサイズが大きいこととが相まって、民間事業者によって造幣されたコインは金そのものの価値の観点からみると額面以上の価値があったと言えます。

 

それでも、彼と同時期に生きていた人々の多くは、リードが額面よりも少ない金の含有量からなるコインを生産していると主張しました。金の含有量の疑いと、リードが個人でコインを鋳造することは違法であるという人々の誤った認識により(実際には米国憲法が禁止していたのは州によるコインの生産だった)、人々はリードのコインを疑い、信頼しなくなりました。

 

リードは1830年に、ほんの数ヶ月間金貨を鋳造しましたが、これが彼の名を冠した最後のコインというわけではありません。

 

1830年代から40年代にかけて、ジョージア州北部では貴金属の発掘量が減り、金に対する熱が冷めてきました。しかし西に2500マイル先のカリフォルニアで、再び金への熱が再上昇しようとしていました。それは1840年代後半に新たにゴールドラッシュが始まった場所であり、何千人もの人々がお金持ちになるという幸運を掴むために切磋琢磨していました。このカリフォルニア・ゴールドラッシュにおいても、「テンプルトン・リード(Templeton Reid)」の名前が刻印された少なくとも2つの金貨を含む新たな金貨が生まれました。正真正銘の10ドル金貨と25ドル金貨がその存在を証明しています。

 

一部の人々は、このカリフォルニア・ゴールドラッシュを利用して儲けるために、リードがカリフォルニアに赴いてコインを鋳造していたと主張しました。しかし1849年にはジョージアの金属職人であるリードはすでに60歳近く、病気を患っていたため、多くのコイン収集家はその主張は非現実的であると信じています。ボートと牛車がジョージアの田舎から険しい太平洋の海岸まで移動する唯一の手段だった時代に、彼がそのような長い旅をすることは物理的に不可能だったでしょう。

 

それでは1849年の日付と「CALIFORNIA GOLD」の文字が書かれた2つのテンプルトン・リード・コインの背景にはどのようなストーリーがあるのでしょうか。

 

最も可能性が高いのは、カリフォルニアから少量の金鉱石がリードに届き、リードはその金貨がカリフォルニア起源であることを称えるために「CALIFORNIA GOLD」のマーキングを施したという説です。これらのリードのカリフォルニア金貨は、リードが造幣した以前の金貨よりも金純度が低く、リードによると.893の純度と推定されていました。米国造幣局の推定では、純度はわずか.871とされています。

 

残念ながら、1849年産の10ドル・テンプルトン・リード・カリフォルニア・ゴールドコインの所在はわかっていません。25ドルの同コインは1858年8月16日に米国造幣局のキャビネットコレクションから盗まれ、その後回収されていません。1849年産の25ドル・テンプルトン・リード・カリフォルニア・ゴールドコインの行方は現在も謎のままで、多くの人が、コインがまた出てくることを望んでいます。その一方で、この25ドルコインは米国造幣局から盗まれてすぐに、金の含有量の影響で溶けてしまった可能性がある、という説もあります。PCGSは長い間、この非常に希少価値が高く真正性の高いコインを提出した人に対して、10,000ドルの報酬をオファーしています。

 

コイン収集家たちは1849年産の25ドル・テンプルトン・リード・ゴールドコインが回収されるのを待ち望みながら、公開オークションや個人間取引を通じて時折現れる他の希少なテンプルトン・リード・ゴールドコインを追いかけることを楽しんでいます。1830年の日付が書かれたコインのうち、おそらく15個の2.5ドルコイン、6個の5ドルコイン、そして5個の10ドルコインが知られています。3つの10ドルコインには日付が記されていません。本物の1849年産10ドルゴールドコインは唯一無二の存在ですが、1900年代初頭にコインディーラーのステファン・K・ナギー(Stephen K. Nagy)によって鋳造された銅、銀、ベースメタルのコピー品がいくつか存在しています。

 

一方で、PCGSは合計18個のテンプルトン・リード・ゴールドコインを格付けしました。これらのコインは、特定の地域で民間事業者が発行したゴールドコインのコレクターの間で非常に人気の高いものです。1830年産の2.5ドルコインの中でも最も有名なPCGS MS61コインは、2020年2月のカギンズ(Kagin’s)オークションで480,000米ドルという記録を樹立しました。存在する6つの5ドルコインのうち、2つはスミソニアン研究所(Smithsonian Institution)に常駐しており、残りの4つだけが個人に保有されています。これらのうちの一つでPCGSによりジェニュイン(Genuine)の格付が与えられたコインは、2019年8月のスタックス・ボワーズ・ギャラリー(Stack’s Bowers Galleries)オークションで204,000米ドルを記録しました。同じく希少価値の高い1830年産の10ドル・テンプルトン・リード・ゴールドコインはめったに公に出ることがなく、1984年にボワーズ&メレナ(Bowers & Merena)イベントでEF40コインが90,750米ドルで取引されたのを最後に、公開オークションで取引されたことはありません。

 

 

 

本記事は、『COINWEEK』の翻訳記事です(掲載許可有り)。元記事は以下のリンクより確認できます。

参考:https://coinweek.com/us-coins/early-u-s-coins-the-gold-coins-of-templeton-reid/