イギリス王ジョージ4世とは?”悪名高きイギリス王”と呼ばれる理由とコインの価格推移を解説

1826年発行のイギリス ジョージ4世の5ポンド金貨は発行数がわずか150枚。希少価値が非常に高く、滅多にないといえるレアな金貨です。このジョージ4世金貨はぜひ押さえておきたい1枚です。

1066年から始まるといわれるイギリス王室の歴史は、「王室の歴史は、名君よりもスキャンダルに包まれた国王のほうをより多く記録してきた」と歴史家にいわれてしまうほどゴシップに事欠きませんでした。幾多の愛人、浴びるほどの大量のお酒、豪華な邸宅にきらびやかな芸術品の数々、ギャンブル、そして美しい血統馬。借金に借金を重ね1795年の時点で約80億円以上の借金をつくっていたといいます。

1811年から1820年の間、父王であるジョージ3世が病気で統治できなかったため、摂政(プリンス・リージェント)として国を統治しました。ジョージ4世の治世は、「摂政時代」(Regency era)とも呼ばれています。

美しい大型金貨とジョージ4世の生涯について見てみましょう。 

ジョージ4世 5ポンド金貨

ジョージ4世5ポンド金貨 表裏

基本データ

コイン名 イギリス ジョージ4世 プルーフ 5ポンド金貨
通称 ジョージ4世 5ポンド
発行年 1826年
イギリス
額面 5ポンド
種類 金貨
素材
発行枚数 150枚
品位 Au 916
直径 38.0 mm
重さ 39.94 g
統治者 ジョージ4世
デザイナー 表:ウィリアム・ワイオン(William Wyon)|裏:ジャン・バプティスト・メーラン(Jean Baptiste Merlen)
KM #702
表面のデザイン 左向きのジョージ4世の肖像とレジェンド、年号
表面の刻印 GEORGIUS IV DEI GRATIA · 1826 ·(George the Fourth by the Grace of God|神の恩恵を受けるジョージ4世・1826年)
裏面のデザイン マントルとシールドとデザイン
裏面の刻印 BRITANNIARUM REX FID: DEF:(King of the Britains Defender of the Faith|イギリスの王であり信仰の守護者)
エッジのタイプ レターエッジ(ラテン語)
エッジの刻印 Septimo(在位7年の意味)

“金のスプーンを口にした王子”の誕生からジョージ4世の青年期まで

母シャーロット妃とジョージ4世(左)、弟のフレデリック王子

▲母シャーロット妃とジョージ4世(左)、弟のフレデリック王子

ジョージ4世は、ハノーヴァー朝の4代目として1762年に生まれました。ハノーヴァー王家はドイツの家系でしたが、ジョージ4世の父王ジョージ3世の時代からようやくイギリス人らしい王となり、国民からも受け入れられるようになっていました。長男として生まれたジョージ4世は「金のスプーンを口にした王子の誕生」として国民に大いに祝福されたのです。これは、その人物が生まれながらに非常に贅沢な生活を送ることができるほどの富や地位を持っていることを意味します。

ジョージ4世の幼少期は語学の才能にも恵まれ、美男美女であった両親の血を継いで美しい容姿の王子でした。父ジョージ3世とシャーロット王妃のあいだには、ジョージ4世を筆頭に9男6女が生まれています。父王ジョージ3世は、ジョージ4世の教育については「甘やかさない」という方針を貫いたそうです。しかし、その教育は実を結ばず、ジョージ4世は、18歳で独立したあと数々の愚行を重ねることになるのです。イギリス国民はジョージ4世から直接被害を被ることはなかったものの、スキャンダルだらけの皇太子に困惑し、風刺画が巷にあふれることになったのです。

稀代のプレイボーイ!?18歳で独立、奔放な女性関係

若き日の美しいジョージ4世

▲若き日の美しいジョージ4世

厳しい教育を受けたにもかかわらず、ジョージ4世はなぜ数々の愚行をおかしてしまったのでしょうか。皇太子時代のジョージ4世がさまざまな問題を起こした理由の一つとしては、叔父であるカンバーランド公ヘンリーの存在があると言われています。

品行方正であったジョージ3世の弟とは思えないほど、カンバーランド公は奔放な人でした。兄王に無断で結婚したり、それが二重婚であったりとジョージ3世をさんざん悩ませたと言われています。彼のスキャンダルから、1772年の「イギリス王室結婚令(Royal Marriages Act)」が制定されました。これは2013年の改正まで長年にわたり制定されていました。

カンバーランド公の影響を受けた皇太子時代のジョージ4世は、反国王派の貴族と親密になり、高額のギャンブル遊び、ブランデーのがぶ飲みなど、よからぬ紳士のたしなみを会得することになってしまうのです。

女性関係も派手だったジョージ4世。プレイボーイであった叔父カンバーランド公の影響で、16歳で女官に手を出したのを皮切りに、妹の家庭教師や女優と次々にスキャンダルを起こすことになりました。したたかな愛人たちの中には、彼に高額の宝飾品を要求したり、ジョージ4世からのラブレターを材料に金品をねだるなど、まさにゴシップ記事のネタになるようなことのオンパレード。父王や宰相は、ジョージ4世が立ち直ることを望みつつ、それに関わる歳費を賄い続けたといいます。

未亡人マリア・フィッツハーバート夫人との出会い

マリア・フィッツハーバート夫人

▲マリア・フィッツハーバート夫人

お金持ちの未亡人であったフィッツハーバート夫人はカトリック教徒で、それを理由にジョージ4世を避け続けたのですが、ジョージ4世は、自殺未遂騒ぎまで起こして恋を成就させ、この未亡人に結婚をせまりました。「王室結婚令」によれば、ジョージ4世がカトリック教徒の女性と結婚した場合は王位継承権を失うことになります。ところが、2人は1785年にイギリス国教会の牧師を招いて結婚を強行。これにはさすがのジョージ4世の取り巻きたちも驚き、ジョージ4世の軽率な行動をなじったそうです。

マリア・フィッツハーバート夫人が大切にしていたジョージ4世の肖像のペンダント

▲マリア・フィッツハーバート夫人が大切にしていたジョージ4世の肖像のペンダント

9年後にジョージ4世とフィッツハーバート夫人は別れることになりますが、その間にもジョージ4世の女性関係が落ち着くことがなく、父ジョージ3世の心労は極限に達して精神を病むことになってしまったのでした。

ジョージ4世と妻キャロラインの不幸な結婚生活

王妃キャロライン・オブ・ブルンスウィック

▲結婚後即別居した王妃キャロライン・オブ・ブルンスウィック

フィッツハーバード夫人と別れたころのジョージ4世は32歳。当時は皇太子でしたが、ジョージ4世の借金は皇太子の歳費の6年半分に匹敵する巨額に達していました。そのため、借金や債務を免除してもらうことを条件に、イギリス政府が求める政略結婚に応じます。父王ジョージ3世も長男のだらしなさに頭を抱えますが、なんといっても王位継承者の存否にかかわる問題であるため、30代に入った息子ジョージ4世の嫁探しを始めました。ちなみに、ジョージ3世の子どもたちの結婚年齢は非常に遅く、王室内のスキャンダルがイギリス内外の王侯貴族たちに二の足を踏ませていたようです。何人かの候補者の中から、ジョージ4世自身が肖像画を見て気に入ったのがブルンスウィック・ヴォルフェンビュッテル公の娘キャロラインでした。

結婚式の様子

▲結婚式の様子

しかし2人の結婚は、不幸に終わる運命にありました。1795年4月、キャロラインはロンドンに到着し、ジョージ4世はさっそく開かれたレセプションで彼女にキスをします。ところが彼女の強烈な体臭に驚き、ジョージ4世は場所を移してブランデーをあおったという逸話があります。またキャロラインは、異常な肥満のジョージ4世に幻滅したとのちに語っています。3日後に行われた結婚式では、ジョージ4世はブランデーをしこたま飲んで酩酊状態、弟たちに左右から支えられてやっと式に臨んだそうです。2人のあいだには1796年に長女シャーロットが生まれますが、あっというまに別居。ジョージ4世は当時の愛人であったジャージー伯夫人フラーンセスと同居し、国民の不評は一気に高まることになったのです。

 

イギリス王として戴冠も、変わらぬジョージ4世の不評

1810年に父王ジョージ3世は視力を失い、また精神的にも再起不能と診断されます。そのため、ジョージ4世は皇太子と摂政位(リージェント)を兼任するようになりました。国政を担うという責任を実感することもなかったようですが、リージェンツ・パークやリージェント街など今に名を残す都市計画には熱心でした。奔放な女性関係は変わらず、キャロライン王妃の不貞の証拠を握って離婚することばかりを考えていたようです。

ジョージ4世の戴冠式の様子

▲ジョージ4世の戴冠式の様子

1820年に父ジョージ3世が深刻な病に陥ったことで、57歳の時に跡を継いで即位しました。1821年7月に行われた戴冠式にさえ、キャロライン王妃の参加を認めませんでした。一時期はジョージ4世の仕打ちに憤慨し、キャロライン王妃に同情していたイギリス国民も、王妃自身に魅力がなかったためかその気持ちも長続きはしなかったようです。結局キャロライン王妃は、ジョージ4世の戴冠式の10日後に他界。ジョージ4世はその後、10年を王として過ごしましたが、再婚はしないまま終わっています。

 

ジョージ4世の功績

キルトを纏ったジョージ4世

▲スコットランド訪問時にキルトをまとったジョージ4世

アイルランドとスコットランドの訪問の重要性

1821年にアイルランドを訪問しました。これはヘンリー2世以来、アイルランドを訪問した初めてのイギリスの国王でした。彼の訪問は、アイルランドの人々とイギリス王室との関係改善を目指すものでした。

ジョージ4世のアイルランド訪問は、アイルランド人に大変歓迎されました。アイルランドの文化や民族衣装に敬意を表し、キルトを身にまとい訪問しました。滞在中に上流階級や名士と交流を持ち、また、彼はアイルランドの都市開発やインフラ整備の計画に関心を持ち、アイルランドの経済発展に一定の影響を与え、ジョージ4世はスコットランドとの融和に成功しました。

1822年にイギリス国王としては約200年ぶりにスコットランドを訪れました。ジョージ4世のスコットランド訪問は、ウォルター・スコット卿(Sir Walter Scott)が主催し、彼の訪問をスコットランドの民族意識や文化復興のための機会と位置づけました。ジョージ4世は、ロイヤル・タータン(Royal Tartan)やキルト(kilt)を着用し、スコットランドの文化や伝統に敬意を表しました。彼はエディンバラで大歓迎を受け、多くの式典や祝賀イベントが開催されました。

スコットランドの民族の自尊心や文化的アイデンティティを高める効果がありました。また、スコットランドの観光業の発展にも寄与し、エディンバラやハイランド地方を訪れる観光客が増えました。

しかし、ジョージ4世のアイルランドとスコットランドでの功績は、政治的問題や社会問題に対して大きな解決策をもたらすことはできませんでした。彼の治世の間、カトリック解放運動や大飢饉の問題に直面していましたが、これらの問題に対する関与は限定的でした。

後のアイルランド政策は、後継者であるウィリアム4世やヴィクトリア女王の時代にさらなる改革が行われるまで、大きな変化をもたらすことはありませんでした。

ナポレオンとの抗争

また、ジョージ4世は摂政時代からナポレオンとの戦争にかかわってきました。イギリスは、フランス革命後のナポレオンの動向に神経をとがらせていました。トラファルガーの海戦やワーテルローの戦いで、イギリスはナポレオンを破り、フランスの勢力を撃沈。ヨーロッパの超大国としてのメンツを保ちました。ワーテルローの戦いが行われたのは、ジョージ4世が摂政であった時代。晴れて戦勝国の王として即位したことになります。

ジョージ4世がプリンス・リージェント(摂政)だった1811年から1820年の間、イギリスはナポレオン戦争の最終段階においてフランスやその同盟国と戦っていました。この期間、ジョージ4世は軍や政府を支持し、戦争努力に貢献しています。ジョージ4世は、軍事作戦に直接関与することはありませんでしたが、ナポレオンとの抗争に勝利するための支援を提供していました。

ワーテルローの戦い

▲ワーテルローの戦いの様子

1815年には、イギリス軍はウェリントン公率いる連合軍と共に、ワーテルローの戦いでナポレオン軍に勝利。これによりナポレオン戦争の終結をもたらし、ナポレオンは最終的にセントヘレナ島に追放されました。

贅沢が故の功績

ジョージ4世は政治家、君主としては全く不適格な人物と思うかもしれません。しかし、贅沢な故に画家・彫刻家・建築家のパトロンとして大いに活躍しました。

もちろん芸術家達に払う請求書は山積になり、最終的には国や父の遺した資産によって払われていますが、現在にも受け継がれるイギリスの芸術史には偉大な貢献をしているのです。

バッキンガム宮殿

▲今でも世界中の観光客が訪れる人気の観光地であるバッキンガム宮殿

ロイヤルパビリオンの建造、ウィンザー城やバッキンガム宮殿の改築、リージェント・ストリートやリージェント・パークの建設を含む多くの建築プロジェクトを推進しました。ジョージ4世は次の大英帝国時代への土台を築いた人物でもあるのです。

イギリスの金貨の裏側のデザインで有名な「セントジョージの竜退治」のデザイナー、ベネディット・ピストルッチをイタリアから招いたのもジョージ4世でした。

セントジョージの竜退治

▲セントジョージの竜退治 

ジョージ4世の晩年

晩年のジョージ4世は、最後の愛人カニンガム候夫人とともに過ごし、1830年6月26日にウィンザー城で世を去りました。とはいえ、当時のザ・タイムス紙はジョージ4世の死を酷評で飾りました。「親不孝者、最悪の夫、不良の国民、悪い王。誰が、ジョージ4世のために涙を流すだろう? 誰が心からの悲しみで心を満たすだろう?」と書きました。

1796 年に書かれたジョージ 4 世の遺書では、「私の心と魂の妻」と表現したマリアの肖像が入ったペンダントを身に着けて埋葬されることになっていました。国王の死後、遺言執行者のウェリントン公爵 は、遺言通りにマリアの肖像入りのペンダントと一緒に埋葬しました。

また、ジョージ4世がキャロライン王妃との間にもうけたたった1人の王女シャーロットは、のちにベルギー王となる男性と結婚したものの産褥で早逝。ジョージ4世の後は、弟のウィリアムが王位を継ぐことになりました。

 

ジョージ4世 5ポンド金貨の価格推移

記念硬貨のため、1826年のみ単年号の発行です。プルーフでの発行のため、「PF」「PR」での鑑定しかありません。

PR62 Ultra Cameo

PR62 Ultra Cameo

2022年5月5日に$96,000で落札。

PR63+ Deep Cameo

PR63+ Deep Cameo

2023年1月9日に$168,000で落札。

PR64 Ultra Cameo

PR64 Ultra Cameo

2020年5月5日に$360,000で落札。

(写真ではわかりづらいですが、プルーフです)

PR66 Ultra Cameo

PR66 Ultra Cameo

2020年11月5日に$360,000で落札。

準TopPop。

 

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