コインにとって金が最も重要な金属になった理由とは?
世界中で何世紀にも渡り、コインと貯蓄に関しては銀が主役でした。それが変わったのは、19世紀のことです。2020年9月30日と10月1日に開催される「A Numismatic Gold Treasure(貨幣史におけるの金の宝物)」と題されたクンカー・オークション(Künker Auction)に出品されるコインを参考にした上で、金がどのようにして、またなぜ主流となったのかを解説し、その過程で何が起こったのかを説明します。
すべては、アイザック・ニュートン卿に始まりました。具体的には、ブラジルで発見された巨大な金鉱床と、それらがニュートンに対して引き起こした問題から始まったと言った方がいいかもしれません。この鉱床の発見により金の価格が押し下げられ、金と銀のコインに定着していた金銀交換比率を、絶えず再計算しなければならないような状況に陥りました。
当時、 ロンドン塔にあった王立造幣局(ロイヤル・ミント )の長官であったアイザック・ニュートンでさえ、これはお手上げの状態でした。1717年に行われた最終調整では、ニュートンは銀貨を高く評価しすぎ、そのため事実上銀貨が流通から消え失せることとなりました。
このような経緯で、金本位制が法律的に可決されるはるか以前に、イギリスは実質的に金本位制に移行することとなりました。イギリスの議会が金貨を法定通貨として正式に認証したのは、1774年です。これにより、銀貨の引き受けは25ポンドまでと設定されました。
イギリスは、金本位制において特別な役割を果たしたと言ってもいいかもしれません。世界中のほとんどの国では、コインの鋳造には、銀が依然として最も好まれて使用されていました。一方、フランスでは、金銀複本位制が導入されており、1803年のナポレオンが定めた金融法によって、1 (金):15.5 (銀) の法定相対的価値が長年確立していました。
したがって、19世紀の初めには、国の通貨制には以下の3つがありました:
- 金本位制
- 銀本位制
- 金と銀の両方を使用し、固定化した金銀比価を用いた金銀複本位制
金と銀の比率の変動
1848年、カリフォルニアで金が発見され、1851年にはオーストラリアでも発見されました。これにより、世界中で採掘される金の量が大幅に増加しました。1801年から1810年の間には、世界中で15.3トンが採掘されましたが、この量は1841年から1850年の間に76.7トンに達し、20世紀の当初の10年間には567.8トンに増加しました。早い話が、何世紀にもわたって存在していたよりも、はるかに多くの金が突然流通するようになったのです。
これは、フランスのように、金と銀のコインの固定比率に基づいた通貨を採用していたすべての国に問題を引き起こすこととなりました。この時期、商魂たくましい人たちの一部は、交換比率の違いを利用して多額の利益を上げました。彼らは輸出入をあちこちで繰り返し、私腹を肥やしました。その結果、フランスでは銀貨が少なすぎる、アメリカ合衆国では金貨が少なすぎる事態に陥ることもありました。
このようなことから、莫大な価格変動は立法者にとってはとても厄介なものでした。金と銀のコインの比率を確立するやいなや交換比率が変動していたので、財務省の損失を防ぐため
に新たな法律を可決する必要がありました。
さらに、1859年にネバダ州のバージニアシティで巨大な銀鉱床が発見されたことにより、事態はさらに複雑化しました。このバージニアシティの鉱山は、閉鎖するまでに約700万トンの純銀を産出し、結果として、銀の価格も急落しました。長期的には、1870年の60ペンスから、1880年には52ペンス、1910年には24ペンスに下落しました。
理論と実践:どうして金本位制が普及したのでしょう?
研究者は、なぜ世界経済が長い年月を経て金本位制を採用するようになったかついて、2つの異なるセオリーを挙げています。
まず第1のセオリーによると、貴金属の価格が絶えず変動している状態下で日々の生活を過ごすのは難しいと、人々が感じていたことによるとのことです。第2のセオリーでは、自国の通貨システムを、取引する国に適応させようとした国家の努力に根ざしていると語っています。
19世紀当初、2つの国が経済的リーダーの座を巡って争っていました。イギリスとフランスです。どちらがその座を勝ち取ったかは、ご存じだと思います。工業化のおかげで、ロンドンは世界で最も重要な金融センターとなり、全世界貿易の3分の2は、UKポンドによって賄われていました。したがって、自国通貨を金本位制に切り替えるということは、この金融センターへの特権的アクセスを得られることを意味していました。
フランスとラテン通貨同盟
しかし、ナポレオン戦争の間にその通貨システムを広げたフランスの金銀複本位制も、なかなか捨てがたいものでした。ベルギー、スイス、イタリアではフランスのコインが流通しており、また、それらの国のコインもフランスで幅広く使われていました。広い経済区域であることは確かに利点でしたが、各国が独自の目的達成のためにそれを利用しようとしたという欠点もありました。
コムストック鉱床がバージニアシティで発見さ れ、その産出量が銀の価格を崩壊させたことを思い出してください。フランス通貨圏の各国の中では、イタリアが、この銀価格の下落にまず最初に対応し始めた国でした。1862年、イタリアは、価値の低いコイン用の円形金属板に使用する合金を変更し、銀含有量を1,000分の900から835に減らしました。
これは、1,000分の900の純度でコインを鋳造していたフランスにとっては悩みの種でした。何故かというと、機知に富む人たちは、フランスの純度の高い銀貨をイタリアに持って行き、そこで銀貨を溶かして同じ通貨単位の純度の低いイタリアのコインに再鋳造し、銀貨の枚数を増やした上で再びフランスに持って行き、純度の高いフランスの銀貨に交換していたからです。
1864年、フランスは銀貨の純度を1,000分の835に落とすことを余儀なくされました。しかし、その当時、スイスはすでに1,000分の800の銀合金で銀貨を鋳造することを決定していました。想像がつくかもしれませんが、先ほども述べた機転の利く人たちは、一般大衆を犠牲にしてかなりの利益を上げた次第です。
1865年のラテン通貨同盟は、このような活動を不可能にするためのものでした。この協議会の一部の代表者は、金本位制を強く求めるロビー活動を行いましたが、結果としてはフランスの金銀複本位制が勝利を勝ち取りました。しかし、1867年にフランスが招集した大規模な通貨会議では、複本位制を国際レベルで推進することはできませんでした。この時点で、金銀複本位制には未来がないことが明らかになりました。
ラテン通貨同盟国を表したカラフルな地図を見ると、世界がこの同盟を熱心に支持していたように見受けられますが、それぞれの国が、20フラン金貨または5フラン銀貨と同重量のコインを発行していたからといって、その国が金銀複本位制の維持を支持していたというわけではありません。これらの国は単に、フランスのコインと互換性のあるコインを保有していたかっただけです。
ドイツが金本位制を選択
1854年、イギリスの主要な貿易相手国であったポルトガルは、波紋を広げることもなく金本位制に移行しました。
新たに成立したドイツ帝国が金本位制を選択した際は、非常に異なったものでした。ナポレオン3世に対し勝利を収めた後、ドイツはヨーロッパで最も重要な経済大国にのし上がりました。ドイツの影響力は大きく、オランダとスカンジナビアもドイツ帝国に次いで、金本位制を採用することを決めました。
とは言え、このことからこれらの国々が、特に大きな一歩を踏み出したというわけではありません。金本位制に変わったと言っても、一般市民が気づくほどの大きな影響はありませんでした。
ここでポイントを押さえておきたいのですが、金本位制になったからと言って、銀貨が流通しなくなったというわけではありません。金本位制の採用は、ただ単に、すべての支払い手段、つまり少額コイン、紙幣、銀行預金などが、いつでも金との交換に応じられることを意味していました。
ちなみに、1871年に戦争賠償として支払われたフランスのコインが、ドイツの20マルク金貨に再鋳造されたというのは逸話にすぎません。支払われた50億マルクのうち、42億4,800万はUKポンド建ての為替手形でした。ドイツは、ロンドンでこれらの手形を自国通貨の生産に必要な金に交換しました。銀貨が循環から撤退され、原材料として市場に戻されたことにより、銀の価格はさらに下落することとなりました。
アメリカの銀生産
ドルを製造し始めた際、アメリカ合衆国は主にフランスからの貸付に依存していました。たとえば、「バンク・オブ・ノース・アメリカ(北アメリカ銀行)」の設立は、フランスからの融資のおかげ成り立ったものです。このことを考えると、カリフォルニアに豊富な保有金があったにもかかわらず、アメリカ合衆国がフランスの通貨システムに基づいて、金と銀の両方を用いた複本位制を採用したのも不思議ではありません。
その後1859年に、先ほども述べたように、コムストック鉱床が発見されました。この発見は、銀の価格に大きな影響を与えました。歴史上「大不況」として知られる危機の最中に、アメリカ合衆国政府は1873年の貨幣鋳造法において、金本位制の採用を含む一連の措置を確立しました。
金本位制に対する本格的な抵抗が起こったのは、その3年後のことです。この貨幣鋳造法は、銀生産者の間で「73年の犯罪」と呼ばれるようになりました。銀生産者は自分たちの利益を守るための運動を起こしましたが、その本来の動機を隠すために優れた広報戦略を展開しました。「銀の価格が下落した理由は、国内の過剰生産のせいではない。むしろ、通貨の切り替え後のドイツにおける銀の販売が理由である」。このような記述のあるアメリカ歴史の本を読むことがあると思いますが、これは銀生産者の大々的な広報戦略に起因するものです。
1878年、ブランド=アリソン法が、ラザフォード・B・ヘイズ大統領の拒否権行使を乗越えて成立し、財務省は毎年一定量の銀を国内の銀生産者から購入し、それを使用して銀貨を鋳造することを余儀なくされました。この銀は市場価格で購入されたため、この展開は金銀複本位制に戻るためのものではなく、国内の銀生産者にとって有利になる購入支援が目的でした。
同じ年に、アメリカ合衆国は国際通貨会議を開催しました。そこでアメリカは、世界最大の銀生産国の1つとして、金銀複本位の通貨システムに切り替えるよう各国を説得しようと試みました。アメリカ合衆国産の銀を、世界中で販売できるようにするためです。残念ながら、その試みは失敗に終わりました。ドイツは代理人を一人も送らず、イギリスの代表団は、すべての提案を阻止するよう命じられていました。
需要と供給の間で拡大し続けるギャップは、依然として問題でした。1890年、アメリカ合衆国議会は、シャーマン銀購入法を可決しました。ブランド=アリソン法に取って代るこの法の成立により、連邦政府はこれまでのほぼ2倍の量の銀を購入することが求められ、このことにより世界で2番目の主要な銀の購入者となりました。ちなみに、世界最大の銀購入者は、急速に下落する銀の価格を抑えインドルピーを支えようとした、インド領における英国政府でした。
1890年には1年間で、銀の価格は1オンスあたり1.16ドルから、0.69ドルに下落しました。1895年11月1日、財務省は一時的に銀貨の発行を停止しました。
これは、アメリカ合衆国だけのことではありませんでした。1890年代、ロシア、日本、ハプスブルク君主国も、金銀複本位制から金本位制に切り替えました。フランスとラテン通貨同盟の国々は、イタリアを除いて、1878年にすでに採択していました。
商業的利益と農業社会
1890年のシャーマン銀購入法が可決された理由は、インフレを引き起こし、小規模農家が安価な銀貨で借金を返済できるようにするのが主な目的でした。これが、19世紀に金本位制が勝利を収めた、3番目の理由につながります。
歴史上、これほど貨幣が鋳造されたことは、かつてありませんでした。イギリスでは、通貨流通高は1850年の2億5,540万ポンドから、1913年には113億360万ポンドに増加しました。紙幣や銀行預金とは対照的に、コインの割合は23.9%から12%に減少しました。ドイツでも同様のパターンが見られ、1875年の13億8千万マルクが1913年には183億1千万マルクに増加し、コインの割合は42.4%から18.3%に減少しました。
この貨幣の普及は、経済が自給自足から、労働分割を基盤とした社会へと移行しつつあったことと密接に関連しています。都市で働く人は、自分の貯えの価値が下がらないことをあてにし、安定した金を好んでいましたが、一方、借入金が増え続ける農民は、返済の助けになるインフレに依存していました。
ほぼ世界的な金本位制への移行は、国で重要視される区分に属する人口は、もはや地方ではなく、都市に拠点を置いていたことを示しています。
安全資産としての金
金の価格は常に変動していますが、今日でも金は、依然として安全資産と見なされています。各国政府は今もなお、金が自国に流れ込むことを奨励しています。たとえば、金地金製品の購入の際は、多くの国で付加価値税が免除されていますが、銀、プラチナ、ロジウムなどのほかの貴金属の地金製品には、税金が課されています。
金本位制だからといって、国のすべてのコインが金で作られなければならないということではありません。金本位制が意味するのは:
- 紙幣と銀貨を、制約を受けずに金へ交換できること
- 規制されない金の輸出入
- 国の通貨供給が、その国の金準備に裏打ちされたものであること
これが、最終的には金本位制が崩壊した原因です。政治的な緊急事態においてさえ、国の金準備の範囲内でのみ紙幣を発行するという規律を守っていた国は、世界中で一つもありませんでした。これが、第一次世界大戦の初めに起こった、ヨーロッパでの通貨システムの崩壊につながりました。金現物に対する需要が市民の間で高まり、もはや国の金準備では需要を満たすことができなくなりました。
第一次世界大戦後、多くの国は金本位制に戻りました。価値が無くならない金現物のみが信頼できるものであるというこの集合的認識は、依然として金貨が、有事の際に頼れる資産として最適のものであることを意味しています。
「A Numismatic Gold Treasure」と題されたクンカー・オークションは、コイン収集と金投資を組み合わせる素晴らしい機会になると思います。
本記事は、『COINWEEK』の翻訳記事です(掲載許可有り)。元記事は以下のリンクより確認できます。
参考:https://coinweek.com/auctions-news/how-and-why-gold-became-the-most-important-metal-for-coins/