イギリスの国王ジョージ5世とは?当時の社会情勢も含めて完全解説!
大英帝国の終焉と第一次世界大戦という歴史の転換期にイギリス国王の座を担ったのが、ジョージ5世。彼が生きたのは繁栄から戦乱へと国が動いた時代でした。
戦乱の世へと時代が変わる気配を感じたイギリス国民が不安を隠しきれない中、彼は1910年にイギリス国王として即位しました。
この記事では、ジョージ5世の施政や人柄、当時のイギリス社会の情勢などを詳しく解説します。また、ジョージ5世の意外な趣味など人間味溢れる姿についても紹介していきます!
ジョージ5世とはどんな人物?
ジョージ5世は、「ピースメーカー」と呼ばれた優しい国王「エドワード7世」と母アレクサンドラの次男として1865年に生まれました。
兄のアルバートが肺炎により若くして亡くなったこともあり、1910年(45歳のとき)にイギリス国王として即位。
政治にも長けており、即位後すぐに「議会法」の成立に貢献したり、第一次世界大戦では自ら戦線に赴き、兵士を激励するなど「良きリーダー」として国民から信頼を得ていきます。
「自分は平凡な1人の人間にすぎない」
これは、ジョージ5世即位25周年の式典におけるスピーチでの一言ですが、この言葉からも彼の謙虚さや誠実な人間性が伺えます。
ジョージ5世の施政と当時のイギリス社会
ジョージ5世がイギリス国王となった1910年頃は、イギリスにとってまさに転換期といえる時代でした。第一次世界大戦の勃発や、戦争の影響による世界恐慌の到来などで、イギリスは壊滅的な状態に。
そんななかジョージ5世は、イギリス国王としての責務を全うし、国民や親族の救出などに尽力します。ここでは、ジョージ5世の施政や当時のイギリス社会の動向について、詳しくみていきましょう。
貴族とジョージ5世の闘い
ジョージ5世が王位に就いて、まず取り組んだ政策は、貴族による職権濫用が目立つイギリス議会の仕組みを改善することでした。
それまでイギリス議会は、貴族で構成された貴族院(上院)と庶民で構成された庶民党(下院)からなり、主導権は貴族院の手中にありました。
この件に関しては国会においても様々な議論がなされていましたが、最終的にジョージ5世が国王大権を利用して「新貴族の創設(法案に賛成した者に叙爵すること)」を可能としたことで、貴族の政治的権力が低下したのです。この出来事により、後100年に渡ってイギリスでは、富の再分配が進みました。
第一次世界大戦とジョージ5世(イギリス王室)
即位後、イギリス国内や海外の諸問題に対処していたジョージ5世。しかし、在位4年後に恐ろしい事態に直面します。それが、1914年の第一次世界大戦。
この戦争をきっかけに、ヨーロッパ中の王室が没落するのですが、イギリス国王であるジョージ5世にとっても、非常に難しい局面でした。
イギリスの対戦相手であるドイツには、当時、ジョージ5世の従兄弟がおり、国民感情に配慮して戦う必要があったのです。
このとき、ジョージ5世(イギリス王室)は、祖父アルバートの出自からドイツ由来家名だった「サクス=コバーグ・ゴータ」を、「ウィンザー」という家名に改名。ドイツを想起させることを避け、国(国民感情)が揺らぐリスクにうまく対処しました。
さらに、イギリス王室関係者には敵国ドイツの称号を全て捨てることを強制し、イギリスへの忠誠を表すよう求めました。ドイツの称号を捨てない者にはイギリスの称号を剥奪したほどです。
このとき、ジョージ5世の妻メアリーもドイツの称号を捨て、ジョージ5世とともにイギリス兵の負傷者などへの慰問などを積極的に行いました。このことから、国王夫妻は国民から高い人気を得ていきました。
第一次世界大戦後のジョージ5世の施政と外交
約95万人のイギリス兵が戦死した第一次世界大戦は1918年に終結します。
しかし、第一次世界大戦が経済に与えた影響は大きく、1920年頃からイギリスにおいて失業率が一気に上がり始めました。これにより、イギリスは大きな財政危機に直面したのです。
そこでジョージ5世は、まずは、切迫したイギリス経済を立て直すために、国家予算に含まれる王室費を削減。少しでも国民の税金負担を軽減しようと試みたのです。
その他にも様々な施策に取り組みながら、イギリス経済の立て直しに尽力し、ジョージ5世はイギリス国王在位中に立憲君主制としてのイギリスを国民にも王室にも自ら示していったのです。
ジョージ5世の家族と性格
さて、在位中のジョージ5世の施政や当時のイギリス社会を紹介してきました。ここからはジョージ5世のプライベートな一面をみていきましょう。
航海尽くしのジョージ5世の青年時代と結婚まで
ジョージ5世は14歳の頃から世界各地を航海するほどの航海好きで、青年時代はひたすら航海に明け暮れていました。
1893年、メアリー・オブ・テックと結婚し、6人の子宝に恵まれました。妻メアリーは元々兄アルバートの婚約者でしたが、アルバートの逝去後も祖母であるヴィクトリア女王が彼女との結婚を切望したため2人が結婚したと言われています。ヴィクトリア女王が見込んだだけのことはあり、メアリーは非常に賢妻でした。国事にも協力し、夫に助言したりスピーチの手伝いもしています。
一方、長男のエドワード8世はとても破天荒な面が目立ち、ジョージ5世を困らせていました。彼は長男よりも真面目な次男を好んでおり、エドワード8世が王位を継ぐことにとても不安を抱いていたと言います。
真面目で保守的な人物?
ジョージ5世の性格は、いたって真面目。新婚時代から穏やかで道徳的な保守主義の暮らしを好み、イングランドのノーフォーク州の王室所有の別邸で質素な生活を送ります。
そんなジョージ5世の趣味は狩猟と切手収集。特に切手の収集には非常に凝っており、世界で名を知られるほどだったと言います。
父エドワード7世の趣味であった競馬やファッション、自動車などの派手なものではなく、王族にしては比較的地味な趣味と言えます。
公務だけでなく、私生活においても真面目な性格が表れていますね。
映画『英国王のスピーチ』に登場?クリスマススピーチの生みの親「ジョージ5世」
ジョージ5世が数多く行った施政の中で、現代まで続く行事の1つが「クリスマススピーチ」。
現在のイギリスでは、クリスマスにテレビを通してエリザベス女王が国民へのスピーチをするのが慣例となっています。実はその始まりが、現在のエリザベス女王の祖父「ジョージ5世」なのです。
ジョージ5世は1932年のクリスマスに、ラジオを通して国民に向けてスピーチを披露しました。
「キングス・クリスマス・メッセージ」とも呼ばれるこのスピーチは、映画『英国王のスピーチ』の題材にもなっています。当時のイギリス王室の様子を見てみたいという方は、ぜひ一度ご覧になってみてください。
ジョージ5世と日本の意外な繋がり
生涯を通じて様々な国を訪れていたジョージ5世。実は、王太子になる前の1881年に日本(横浜や京都)にも訪れているのです。横浜では、有名な彫師に依頼して腕に龍の刺青を入れ、京都では狂言を鑑賞したそう。
イギリス国王に即位してからも日本の王族とは親身に接しています。1921年に、後の昭和天皇が初めてヨーロッパを訪問をした際も、昼食を共にしながら、歓談するなど、非常に歓迎していたと言います。
初めてヨーロッパの文化に触れた昭和天皇に対して、ジョージ5世はまるで父親のように優しく親身に接しました。長い歓談の中でジョージ5世は、王族としての立場に関しての助言も与えたと言われています。
昭和天皇へのジョージ5世の助言
ジョージ5世が後の昭和天皇に与えた助言は、「君臨すれども統治せず」という言葉。ジョージ5世は、この言葉をもって「立憲君主制とは、君主の権力は憲法によって制限がある」ということを昭和天皇へ伝えました。
この助言は、後の日本王室の帝王学の教科書にもジョージ5世の伝記が記されるほど、昭和天皇ならび日本王室に大きな影響を与えたのです。
ジョージ5世のアンティークコイン(1911年発行5ポンド金貨)
ジョージ5世は1910年にイギリス国王として即位し、1911年に戴冠式を行いました。その記念として、金貨が発行されています。それがジョージ5世の5ポンド金貨。
表面は左向きのジョージ5世の肖像、裏面はイングランドの守護聖人の1人である「聖ジョージ」がドラゴンと戦う様子と「1911」の数字が描かれています。
金貨の発行枚数は2,812枚で、アンティークコインの中ではそこそこの枚数が発行されています。ただそれでも、状態によっては400万円程度の値段がつくこともあります。
ジョージ5世を知って、近世イギリスを学ぼう!
今回は、ジョージ5世の施政や人柄、当時のイギリス社会の情勢などを中心に解説しました。
ジョージ5世は、イギリス史において、まさに波乱万丈な時代を生きた国王です。しかし、そのような時代のうねりにも負けず、イギリス国王として真摯に公務に取り組んだことからも、誠実な人間性が伺えます。
ジョージ5世こそ、近世イギリスにおいて自分の国家を慎重かつ丁寧に守り、愛した国王と言えるでしょう。