雲上の女神とは?コインに秘められたフランツヨーゼフ1世とエリザベートの愛の物語
オーストリアを代表するアンティークコイン「雲上の女神(100コロナ金貨)」はご存じですか?今も愛される大型金貨の人気の理由を掘り下げます。
オーストリアを代表するアンティークコイン「雲上の女神」。そのデザインに秘められたハプスブルグ家最後の栄光と愛の物語とは。
1908年 オーストリア フランツヨーゼフ1世 雲上の女神
基本データ
コイン名 |
フランツ・ヨーゼフ1世在位60周年記念 100コロナ金貨
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通称 |
雲上の女神
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発行年 |
1908年
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国 | オーストリア |
額面 | 100コロナ |
種類 | 金貨 |
素材 | 金 |
発行枚数 |
16,026枚(プルーフの発行枚数は不明)
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品位 | Au900 |
直径 | 37.00mm |
重さ | 33.88g |
統治者 | フランツ・ヨーゼフ1世 |
デザイナー | ルドルフ・マーシャル (Rudolf Marschall) ルドルフ・ノイベルガー (Rudolf Neuberger) |
KM |
#2812
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表面のデザイン |
フランツ・ヨーゼフ1世肖像
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表面の刻印 | FRANC·IOS·I·D·G·IMP·AVSTR·REX BOH·GAL·ILL·ETC·ET AP·REX HUNG· (Franz Joseph I by the grace of God, Emperor of Austria, King of Bohemia, Galicia, Illyria, etc. and elected King of Hungary) 神の恩恵を受けしフランツ・ヨーゼフ1世、オーストリア皇帝にしてボヘミアの王、ガリシア・イリリア他そして選ばれしハンガリー王 |
裏面のデザイン | 手に月桂冠を持つ雲上の女神 |
裏面の刻印 | 1848 1908 100 COR·DVODECIM LVSTRIS GLORIOSE PERACTIS1848 1908 100 COR· DVODECIM LVSTRIS GLORIOSE PERACTIS (12 lustrae [a measure of time of 5 years in Latin, i.e. 60 years] gloriously completed) 12回の大祓いの後の完全なる栄光 |
エッジのタイプ | レタリングエッジ |
エッジの刻印 | VIRIBVS VNITIS(With United Forces) 皆で力を合わせて/フランツ・ヨーゼフ1世の金言でありモットーであった言葉 |
激動の19世紀を生きた二人の愛を閉じ込めたコイン
雲上の女神と親しまれるフランツ・ヨーゼフ1世のコインに、最愛の妻エリザベートが女神として刻まれているのをご存じですか?
表面には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の肖像、その周りにはラテン語で彼の肩書が刻印されています。
裏面には、皇妃エリザベートをモデルにした女神が雲上に座しています。その右手には皇帝のシンボルである「月桂冠」、もう片方はハプスブルク家の紋章「双頭の鷲」が描かれた盾を手にしています。
実際のエリザベートは歯並びにコンプレックスがあり、微笑を浮かべた肖像画はほとんど残っていません。しかし、「雲上の女神」として刻まれたエリーザベトの口元には、優しい微笑みがうかがえます。
生前は夫婦一緒の時間をあまり過ごすことができなかったフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベート。コインの中では片時も離れることなく永遠に寄り添っています。ヨーロッパの動乱の時代を象徴するコインとして、また夫婦の絆を体現したコインとしても人気を誇っています。
雲上の女神のグレードによる価格差
1908年のみの単年号での発行のため、グレードによる価格差が顕著に現れます。
プルーフでの発行数は不明です。そのため市場に出ているものに「プルーフ」と「MS」の2種類があります。
プルーフ判定とMS判定の場合の価格の違いもみてみましょう。
なお、鑑定に出す際、エリザベートの面を表にして欲しい場合はその旨を鑑定を依頼する代理店などに必ず伝えましょう。
MS61
2022年1月10日にヘリテージ・オークションにて$13,200で落札されています。
MS64
2015年8月13日に$21,150で落札。
PF63 CAMEO
2016年9月18日に$37,600で落札されています。
PF64 CAMEO
2021年1月21日に$66,000で落札。
PF65 CAMEO(世界最高鑑定)
2017年1月9日に$70,500で落札されています。
ハプスブルグ家最後の光「フランツ・ヨーゼフ1世」の激動の生涯
ハプスブルク家という言葉を耳にしたことがあると思います。
ヨーロッパの歴史は、ハプスブルク家抜きには語れません。広大な領土を誇ったハプスブルク家は、中世以来の名門として婚姻政策によって繁栄しました。
フランツ・ヨーゼフ1世は、70年近くオーストリアの皇帝として君臨した、ハプスブルク家最後の光でした。
妻エリザベートの伝説的な美貌とともに、ハプスブルク家の終焉を飾ったフランツ・ヨーゼフ1世とは、一体どんな皇帝であったのでしょうか。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
フランツ・ヨーゼフ1世は、欧州の名門「ハプスブルク家」に生まれたオーストリアの皇帝です。日本人ならば誰でも知っているマリー・アントワネットは、ハプルブルク家の皇女でした。彼女がフランス革命で王妃の座を追われたとき、冷淡な態度をとった甥のフランツ2世が、フランツ・ヨーゼフ1世の祖父にあたります。
フランツ2世の跡を継いだフェルナンド1世は脆弱で子どもがおらず、跡を継ぐのは弟のカール大公になるはずでした。ところが、それに異を唱えたのがカール大公の気丈な妻ゾフィです。
ゾフィは当時の人々から、「ハプルブルク家の唯一の男子」と呼ばれるほど勝気な女性でした。彼女が盲愛し、厳格な帝王教育を授けたのが長男フランツ・ヨーゼフでした。後のフランツ・ヨーゼフ1世は、母の期待だけではなく斜陽の趣があったオーストリア帝国の期待を一身に担って、1848年に若干18歳で皇帝に即位します。
母ゾフィによって与えられた周到な教育によって、当時のフランツ・ヨーゼフ1世は自らの地位を強く意識する君主として育ちました。軍隊の重要性を理解し、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ハンガリー語を駆使できたといわれています。実際、フランツ・ヨーゼフ1世はウィーンの三月革命やハンガリーの反乱を無事に鎮圧し、人々の喝采を浴びました。
エリーザベートとの運命の出会い
勝気な母ゾフィに従順であったフランツ・ヨーゼフ1世が、たった一度だけ母に反抗したのが自身の伴侶を選んだ時でした。婚姻政策によって領土を広げてきたハプルブルク家にとって、現役の皇帝の結婚は帝国の運命を決めるといってもよい一大事であったため、皇帝の私情などは一切関係ありませんでした。
ところが、この結婚は恋愛結婚として成就しました。それは、どんな経緯をたどったのでしょうか。
若き皇帝の結婚相手はプロイセンの王女に的が絞られました。しかしこれは挫折。結局フランツ・ヨーゼフ1世がお見合いをしたのは、従姉妹にあたるバイエルン公国の公女ヘレーネでした。
母ゾフィお墨付きの従順なヘレーネでしたが、フランツ・ヨーゼフ1世の目には入りませんでした。しかし、お見合いについてきた、「シシィ」の愛称で知られ15歳の美しきプリンセスであったエリザベートに一目ぼれをしてしまいます。
几帳面で融通がきかない性格のフランツ・ヨーゼフ1世にとって、蝶々のように軽やかで気ままなエリザベートは、相反する性格を持つ魅力的な相手に映ったに違いありません。母ゾフィがどんなに反対しても、23歳のフランツ・ヨーゼフ1世の気持ちは変わりませんでした。
まさに、「王子様とお姫様のおとぎ話」というエピソードですが、当のエリザベートには「皇妃になる」ことを怖れて、「あの方が皇帝ではなく仕立て屋であったらよかったのに」とつぶやいたと伝えられています。
ゾフィにとって従順な息子の反抗は、エリザベートとの嫁姑戦争を引き起こすことになります。現在では悲劇の皇妃として知られるエリザベートですが、厳格なウィーンの宮廷とは相いれない自由奔放さがあったことは否めません。
また、早朝から政務に励む夫とも、夫婦らしい語らいの時間はほとんど無く、エリザベートが孤独感を深めていったことは容易に察せられます。
それでもフランツ・ヨーゼフ1世の愛は変わらず、エリザベートが宮廷そっちのけで旅に出るたびに、充分な金銭を送って妻を守り続けたのです。
皇帝に次々と襲い掛かる家族の不幸
▲ハンガリーの王として戴冠する夫妻
フランツ・ヨーゼフ1世の治世は、実に68年に及びました。「オーストリア帝国」と一口に言っても、当時の帝国はまさに人種のるつぼ。ドイツ・ハンガリー・チェコ・ポーランド・ルーマニア・クロアチア・スロヴェキア・セルビア、そしてイタリアがその支配下にありました。
多民族国家の皇帝としての憂慮は、とくにハンガリーの反抗にありました。最愛の妻エリーザベートがハンガリーを熱愛していたこともあってか、ハンガリーの自治を大幅に認め、オーストリア=ハンガリー帝国を成立させました。これは一人の皇帝として、個人の力量ではなんとも出来ない、時代の流れであったというべきかもしれません。
オーストリア帝国の外でも、フランツ・ヨーゼフ1世の悩みは尽きませんでした。弟のマクシミリアンはベルギーの王女と結婚しました。しかし、彼女の野心もありメキシコの皇帝になるという途方もない計画を断行。まったく傀儡であったメキシコの皇帝位から結局追われ、処刑されてしまうのです。妻は精神の錯乱を引き起こし、死ぬまで夫の死を認めませんでした。
フランツ・ヨーゼフの家族をめぐる不幸は、これにとどまりませんでした。妻エリザベートとの間に1男3女をもうけています。長女は幼いうちに亡くなり、成人したのは3人。たった1人の男子ルドルフは、皇帝の跡継ぎとして大事に育てられました。
しかし成人後のルドルフは父帝に反抗し、政治的にも孤立してしまいます。そして、1889年に貴族の令嬢と自殺してしまうのです。30才の若さでした。この事件は、「マイヤーリングの悲劇」として知られていますが、フランツ・ヨーゼフ1世にとっては息子を失ったにとどまらず、オーストリア帝国の跡継ぎをなくすという痛恨の事件でした。
ルドルフの自殺後、皇妃エリザベートの放浪はさらに激しくなり、もはやフランツ・ヨーゼフ1世のもとにとどまる時間はほとんどなかったようです。そのエリザベートも、旅行先のスイスで暗殺されてしまいます。
ルドルフとエリーザベートの悲劇は、文学や映画の世界にもインスピレーションを与えたほどドラマチックなものでした。マイヤーリングの悲劇はその後、『うたかたの恋』という小説として、国内外で映画化や舞台化しました。エリーザベートの生涯もルキーノ・ヴィスコンティの映画やミュージカルで上演され、今でもたくさんの人が足を運んでいます。
慎み深く真面目な夫であり父であった皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、文学や映画の世界では常に脇役です。しかし、これほどの不幸に見舞われたフランツ・ヨーゼフ1世は、その後も皇帝として君臨し続けます。
伝説となったフランツ・ヨーゼフ1世
▲棺に横たわる皇帝
息子のルドルフを失ったフランツ・ヨーゼフ1世が跡継ぎと定めたのが、甥のフランツ・フェルディナンドでした。
フランツ・フェルディナンドは、フランツ・ヨーゼフ1世の大反対も、ものともせず、ボヘミアの下級貴族の娘と貴賤結婚をし対立を深めてしまいます。その彼も、1914年に妻とともにサラエボで暗殺。これは、世界大戦の勃発につながる悲劇「サラエボ事件」として現代史でもよく語られます。フランツ・フェルディナンド大公と反目していたフランツ・ヨーゼフ1世はこの事件について、「不幸にも余が支えられなかった古い秩序を、神が立て直してくださったのだ」と冷徹に語ったそうです。
こうした悲劇を乗り越えて、フランツ・ヨーゼフ1世は68年の長い治世を全うします。もはや、生きながら伝説となり「不死鳥」と称えられていた彼が亡くなったのは、1916年。86歳でした。
皇帝位はその後、甥のカールが継ぎますが、そのわずか2年後にはオーストリア帝国は崩壊。フランツ・ヨーゼフ1世は、栄光あるハプスブルク家の実質的最後を飾る皇帝として、今でも多くの人々の記憶に残っているのです。
雲上の女神とフランツ・ヨーゼフ1世
13世紀以来、ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えてきたハプルブルク家。その最後の光として、抜群の存在感を放った皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。帝国末期を象徴するかのように、動乱のヨーロッパの動静だけではなく私生活の不幸にも見舞われた皇帝でした。しかし毅然としてこの運命を受け入れ、ハプルブルク家の栄光を守ったフランツ・ヨーゼフ1世は近代史に大きな足跡を残しています。
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