沈没船から発見された幻のコイン!?メキシコ8エスクード金貨、通称「コブコイン」とは?

近年、海外のコインディーラーの間で注目を集めているのが「コブコイン」です。
これまで中央アメリカをはじめとする近代の8エスクード金貨が人気でしたが、次にブームを迎えるのはコブコインではないかとささやかれています。
一見すると不揃いで装飾性に乏しいコブコインが、なぜコレクターの心を惹きつけるのか?
今回は、フェリペ5世時代のコブコイン「8エスクード金貨」を取り上げ、その人気の秘密を紐解いていきます。
メキシコ フェリペ5世 8エスクード金貨 (コブ)
基本データ
コイン名 | メキシコ フェリペ5世 8エスクード金貨 (コブ) |
---|---|
通称 | コブコイン |
発行年 | 1701年-1732年 |
国 | メキシコ |
額面 | 8エスクード |
種類 | 金貨 |
素材 | 金 |
発行枚数 | 不明 |
品位 | Gold (.917) |
直径 | 29.5mm |
重さ | 26.8g |
統治者 | Philip V |
デザイナー | - |
カタログ番号 | KM# 57 |
表面のデザイン | 王冠付きのスペインの紋章の周りにレジェンドと日付。紋章はミントマークを左、額面を右に分けて配置されている。 |
表面の刻印 | PHILIPVS·V·DEI·G·1715. Mo J VIII |
裏面のデザイン | 四つ葉の中に十字架、周囲にレジェンド |
裏面の刻印 | HISPANIARVM ET YNDIARVM REX+ |
エッジのタイプ | - |
エッジの刻印 | - |
コブコインの名前の由来とは?

▲通称「コブコイン」。画像は銀貨のタイプ
コブコインの名前の由来はスペイン語の「Cabo De Barra」に由来すると言われています。
この言葉は、金属の棒を切り取った「端の部分」を意味し、その切り取られた金属が硬貨に加工されたことに由来すると言われています。
この単語を英語読みした時に、略称として「Cob」と呼ばれるようになり、やがて「コブコイン」と呼ばれるようになりました。 「コブコイン」の他にも、「マクキーナ」や「ピースオブエイト」など別の呼び名も存在します。
「マクキーナ」はスペイン語の「Macuquinas」のことです。この「マクキーナ」という名前がどこから来たのかははっきりと分かっていませんが、一説には、ハンマーコインのように作られていることから、「叩く」を意味するケチュア語の「Makkaikuna」から来たと言われています。
その他にも「承認された」や「認可された」を意味するアラビア語の「machuch」から来たのではないかと唱える人もいます。
「ピースオブエイト」は、特に貿易通貨として使われた8レアル銀貨を指す名称で、こちらもコブコインの種類のうちの1つです。
2022年に毎日杯を制した競走馬の「ピースオブエイト」は、ここから取られています。

▲2022年第89回東京優駿パドックでのピースオブエイト
なぜコブコインは不揃いなのか?
コブコインは「棒の切れ端の部分」というだけあって、その作り方も特徴的です。
コブコインは、精錬したあとの金属を棒状に整えて、重さだけを揃えて切り分け、ハンマーで打刻して製造します。
この方法によって、金や銀の純度と重量を均一に保つことができ、世界中で広く通用する通貨となったのです。見た目の美しさは二の次とされましたが、その分、通貨としての「通用力」は極めて高かったと言えます。
当時、ヨーロッパでは(完璧な機械生産とは言えないまでも)機械的なコインの製造は可能だったと言われています。ではなぜコブコインはこのような作り方を採用したのでしょうか?
そこには2つの理由があります。

製造地の問題
コブコインの原材料になった金や銀は、当時爆発的に採掘が進んでいた中南米から産出されたものでした。
ヨーロッパからコインを製造するための機械を輸入すれば、現地で産出した金銀を使ってコインを製造できたかもしれません。
しかし大型の機械を長距離輸送するには輸送手段の確保や安全性の問題が立ちふさがります。
そのため、最新の貨幣製造を現地で行うことは、当時の技術や環境では難しく、このような製造方法が採用されたのだと考えられます。
生産性の問題
当時、スペインが築いた新たな経済圏では、急速に通貨の需要が増加していました。
産出された金や銀は、現地での流通や国際貿易に即座に投入する必要があり、短期間で大量に製造できる方法が求められたのです。
結果として、見た目よりも生産スピードと品質の安定性を優先し、コブコインのような製造方式が定着しました。
スペイン本国へ送られる際も、品位や重量が統一されていれば十分であり、見た目の整った貨幣である必要はなかったのです。

不揃いなコブコインの課題
コブコインは、重量を調整するために後から削ったり切り取ったりして、規定の重さに仕上げることがありました。
しかし、こうした加工は見た目を損ねるだけでなく、流通の面でも課題を生みました。
例えば、流通の過程で悪意のある者によって意図的に削られたり、加工されたりすることで、貨幣の価値が目減りすることがありました。
さらに、ハンマーで打刻するコブコインの製造方法では、型の摩耗が早く、頻繁な交換が必要だったため、品質のばらつきも避けられませんでした。
「新大陸」の金と銀
スペインが新大陸に到達するまで、これほど豊富な金銀が存在していたにもかかわらず、マヤ文明やアステカ王国の金貨や銀貨についてはほとんど聞かれません。

▲スペインとアステカの戦争を描いたとされる図
そのため、長らく「なぜ中南米ではそれまで金貨や銀貨が使われてこなかったのか」という問いは謎の多い問いとされてきました。
これは、「貴重な金や銀はどの文明でも物々交換の手段になったはずだ」という西洋文化を中心にした思い込みから生まれた疑問といえます。
では、スペインによる侵略を受ける以前、「新大陸」で暮らしていた人々にとって、黄金とはどのような存在だったのでしょうか?
たとえば、マヤ文明では黄金を「神の糞」と見なし、インカ帝国では「金は太陽の汗、銀は月の涙」と考えられていました。
これらの表現からも分かるように、彼らにとって金や銀は日常的な交換の手段ではなく、象徴的な意味を持つものとされていました。
実際、金銀が通貨として用いられた例はほとんどなく、権力者の威信を示す装飾品や宗教的な品として用いられることが一般的でした。
「新大陸」の壮麗な黄金文化を目の当たりにしたヨーロッパの人々は、その豊かさに驚き、伝記や記録の中で誇張を交えながらその様子を伝えています。

▲ドイツを代表する画家アルブレヒト・デューラー
実際にアステカの宝物を目にしたドイツ・ルネサンスを代表する画家、アルブレヒト・デューラーは、ブリュッセルで目撃した財宝への感嘆を、次のように記しています。
純金の太陽。6フィートはある。同じような純銀の月。彼らの武具、槍や投石機、それらのすべては素晴らしいとしかいいようがない。(中略)
これらを前にして、私の心は感動に打ち震えた。正直言って、このようなものを今まで目にしたことはなかったのだ。私はその技術に仰天し、かの遠く離れた土地の天才たちのことを想う。実際、これらの品々を前にして私は言葉もない。
当時のヨーロッパ人にとって、新大陸の金銀は単なる富ではなく、異文化の価値観や技術を示す驚異の存在だったのです。
コブコインのデザイン
コブコインのデザインは、大きく分けて2つのタイプがあります。
1つ目は「盾のデザイン」で、当時スペインを構成していたカスティーリャ王国とレオン王国の紋章が刻まれています。
2つ目は「2本の柱のデザイン」で、海の波間にそびえる王冠を戴いたヘラクレスの柱が描かれています。
どちらのデザインにも周囲を囲うように年号が刻まれていますが、コブコインは個体差が大きいため、4桁の年号が完全に打ち込まれているものほど評価が高い傾向にあります。
また、いずれのコインも金の品位は約91.667%で、直径は個体差があるものの概ね31mm前後の大型金貨です。
両デザインに共通するのは、キリスト教を象徴する十字の紋章が刻まれていることです。
その一方で、君主の肖像は一切描かれていません。これは、スペインやポルトガルの海外進出が「キリスト教世界の拡大」という使命を伴っていたことと無関係ではないでしょう。
エスクード貨やレアル貨は世界中の貿易で利用されたため、その影響や効果は大きかったと考えられます。
こうした傾向は、16世紀にプロテスタントの宗教改革が進む中で、カトリック側の重要な事業の柱になっていきました。
初期のコブコイン
歴史のターニングポイント「1497年」

1497年、スペインの歴史は大きな転換点を迎えます。
この年に起こった出来事が、のちに「コブコイン」の誕生と普及にもつながっていきました。
ひとつは、レコンキスタ(国土回復運動)の完遂です。
スペインは、長年イスラム勢力が支配していたイベリア半島最後の拠点グラナダを奪還し、約800年にわたる戦いに終止符を打ちました。
もうひとつは、「新大陸」の発見がもたらした貿易革命です。
1492年、コロンブスの航海によって、ヨーロッパに新たな世界がもたらされました。スペインはこれを契機に大西洋貿易を本格化させ、中南米の膨大な金銀を手に入れることになります。
それまでのヨーロッパでは、香辛料や貴重品の調達には、イタリアを通じてイスラム商人と取引を行うのが一般的でした。
しかし、この方法では仲介手数料が高額で、国家財政への負担も大きかったため、スペインは独自の交易ルートを求めていました。
「新大陸」の発見と征服により、スペインはヨーロッパ諸国のなかでいち早く、金銀を独自に調達できる立場へと変貌します。
それまで輸入に頼るしかなかったスペイン経済は、中南米で産出された銀を本国に運び、逆に金銀を供給する側へと転じたのです。
コブコインの誕生と流通
この新たな経済圏の中で、「コブコイン」は生まれました。
中南米で大量に採掘された金銀は、現地で「コブコイン」として製造され、統一された品質の貨幣として流通する必要がありました。
こうして生まれたコブコインは、大きく分けて小額貨幣と高額貨幣の2つに分かれて使用されます。
小額のコブコインは、主に中南米の市場で流通し、日常の取引に用いられました。
一方、高額面のコブコインはスペイン本国へと送られ、一部は貿易用に再製造されたと考えられています。
こうして、コブコインはスペインの経済を支える重要な通貨としての役割を果たしていくことになります。
貿易都市セヴィーリャ

▲セヴィーリャの観光スポットスペイン広場の町並み
スペインが新大陸との貿易で繁栄を極める中、その中心となったのがアンダルシア地方の都市セヴィーリャでした。
この地はオリーブオイルの生産で知られるだけでなく、グアダルキビール川という大河が流れ、海洋交易に適した立地を持っていました。
セヴィーリャの港は、大西洋と結ばれており、ここから新大陸との交易が盛んに行われるようになります。
1492年のグラナダ陥落を経てアンダルシア地方への支配を強めたスペインは、安定した海洋交易の拠点を必要としていました。
そこで設置されたのが、セヴィーリャの「通商院(カサ・デ・コントラタシオン)」です。この機関は、すでにポルトガルがリスボンに設立していた「インド商務院(カーザ・ダ・インディア)」を参考にしたとされています。
通商院の役割は、新大陸から運ばれてくる金銀が必ずここを経由するよう管理し、スペイン本国への流入を正確に記録することでした。
新大陸から産出された大量の金銀を効率的に管理することで、スペインは国際貿易において強力な影響力を持つことになります。
コブコインとセヴィーリャ
セヴィーリャで製造されたコブコインが多く存在するのは、この通商院の機能と深く関係しています。
コブコインは、見た目よりも統一された基準が重要視されたため、国内流通や貿易決済に使用される金貨の多くが、この地で鋳直され、再製造されたのです。
また、南米で鋳造されたコブコインと比較すると、セヴィーリャで製造されたものは打刻の精度が高く、品質が安定していることが特徴です。
こうした要素から、セヴィーリャ造幣局(ミント)は、金貨の製造拠点としての名声を確立するに至りました。
その原料となる金銀の多くは、やはり新大陸から輸入されたものでした。
しかし、セヴィーリャの通商院には、次第に大きな課題が浮かび上がってきました。
新大陸からの金銀の流入を一括で管理しようとするほど、密輸や外国への流出を完全に防ぐことが難しくなっていったのです。
特に、貿易の拠点としてセヴィーリャが繁栄するにつれ、管理の目が行き届かないルートを使った違法な取引が横行し始めました。
ほぼ同時期には、日本も江戸幕府がいわゆる「鎖国体制」を築いていた頃でしたが、江戸幕府もまた貿易を管理しようとすればするほど、密貿易の抜け穴を埋めきれなくなっていきます。
密貿易をどう取り締まっていくか、世界的な貿易をどう管理するのか、それを実現できるだけの国は当時の世界水準ではまだ難しい段階にありました。
フェリペ5世のコブコイン「8エスクード金貨」

▲スペイン王 フェリペ5世の肖像
フェリペ5世、「寛容」から「厳格」へ
1701年から1714年まで続いたスペイン継承戦争は、スペイン王フェリペ5世の統治方針に大きな変化をもたらしました。
それまでのスペインは、カスティーリャ王国やレオン王国、フランシスコ・ザビエルの故郷ナバラ王国、さらには一時的にポルトガルをも併合するなど、複数の連合王国として成り立っていました。
このため、歴代のスペイン王は各王国の独自性を一定程度尊重し、それぞれの法律や自治を認めてきました。
フェリペ5世も即位当初はこの慣習を踏襲していましたが、スペイン継承戦争によって状況は一変します。
戦争の中で、スペインの同盟国は次々に離反し、結果としてネーデルラントのほか、ナポリ、シチリア、サルデーニャといったイタリアの領土の多くを失うことになりました。
これを契機に、フェリペ5世はスペインをより統一的な中央集権国家へと変革する決意を固めます。
その際、彼が参考にしたのが、スペイン継承戦争で共闘したフランスの統治モデルでした。
フランスでは、国家の管理を強化し、行政や経済を効率的に運営する中央集権体制が築かれつつありました。
この影響を受けたフェリペ5世は、スペインでも同様の改革を推し進めることを決断し、「ブルボン改革」と呼ばれる一連の政策を実施していきます。
その改革の一環として、スペインの経済基盤を強化するために、貿易の管理体制を見直す必要がありました。
特に、新大陸との貿易を担う主要港のあり方が重要な課題となったのです。
セヴィーリャからカディスへ

▲セヴィーリャからカディス
フェリペ5世は、スペインと中南米の植民地を結ぶ貿易の拠点を、それまでのセヴィーリャからカディスへ移す政策を打ち出しました。
もともと、セヴィーリャはグアダルキビール川という大河を活かした海洋交易の拠点として繁栄していました。
しかし、都市自体は内陸に位置しており、新大陸からの積荷は一度カディスで降ろし、そこから川をさかのぼってセヴィーリャへ運ばれ、再び加工された後、またカディスへ戻すという煩雑な手順が必要でした。
これに対し、カディスは大西洋に直接面しており、新大陸との貿易において地理的な利便性が格段に高い場所でした。
そこでフェリペ5世は、カディスに通商院(カサ・デ・コントラタシオン)の機能を移し、貿易の拠点を一本化することで、輸送の効率を大幅に向上させる決定を下します。
さらに、フェリペ5世は国内経済の活性化を図るため、国内関税を廃止し、製品輸出を促進するための工業施設をカディスに整備しました。
これにより、スペインは大西洋貿易の利益を最大限活用しようとしたのです。
また、この頃には中南米の製造技術も向上しており、メキシコやペルーで製造されたコブ金貨が、そのままスペイン本国で使用されることも増えていました。
18世紀のコブ金貨にメキシコやペルーで製造されたものが今も残っているのは、こうした技術の進展があったと考えられます。
「1715年艦隊」の悲劇
コブコインの8エスクード金貨の中でも、「1715年」銘のものは特に注目を集める存在です。
この年号が特別視される理由は、一つの歴史的な出来事に由来しています。

▲1715年の沈没船を描いた図
1715年、フロリダ沖での沈没
1715年7月30日、スペインの財宝艦隊がフロリダ沖で壊滅的な損害を受けました。
この艦隊は、新大陸で産出された膨大な財宝をスペイン本国へ運ぶために編成された船団でした。
しかし、その航海の途中、ハリケーンが艦隊を襲います。
積み荷を満載したガレオン船は、暴風と荒波に翻弄され、次々と難破。
結果として、約1000人の命と1400万ペソ相当の財宝が失われたと伝えられています。
当時のスペインにとって、大西洋航路を利用した金銀の輸送は国家の財政を支える生命線でした。
その中枢を担う艦隊の沈没は、単なる経済的損失にとどまらず、帝国の衰退を象徴する事件のひとつともなったのです。
沈没後、スペイン政府はただちに財宝の回収作業を開始し、浅瀬に沈んでいた積荷の約半分を引き揚げることに成功しました。
しかし、残る財宝は大海原の底へと沈み、以降、200年以上にわたり人々の目に触れることはありませんでした。
20世紀の再発見
1715年艦隊の沈没が歴史の表舞台に再び現れるのは、20世紀に入ってからのことでした。
1928年、フロリダ州フォートピアス沖で、ウルカ・デ・リマ号と呼ばれる難破船が発見されます。
これは、現代において初めて確認された1715年艦隊の沈没船でした。
その後、1932年にはフロリダ州政府が正式な引き揚げ許可を発行し、
1940年代には、船の遺物や大砲が次々と海底から回収されるようになります。
また、1946年には「ヒッグス遺跡」の調査が始まりました。
この遺跡は、1715年の沈没事故後にスペイン人生存者たちが避難キャンプとして使用した場所であり、
この遺跡を発見した歴史家チャールズ・ダナ・ヒッグスは、考古学者のヘイル・G・スミス博士と協力しこの発掘を進めていきました。
本格的な財宝の発掘には、さらに時間を要することになりましたが、彼らの活動が、この沈没船の記憶が風化されるのを引き止め、次の世代に襷をつないだのです。
財宝の引き揚げ—「リアルエイト社」の登場
1715年艦隊の沈没が、真の意味で世界的な注目を集めるようになったのは、1960年代に入ってからのことでした。
転機をもたらしたのは、フロリダ在住のキップ・ワグナーという男の存在でした。
彼がこの歴史的事件に興味を抱いたのは、フロリダの海岸で「ピース・オブ・エイト(8レアル銀貨)」を偶然拾ったことがきっかけだったと言われています。
その後、ワグナーは歴史資料を徹底的に調査し、金属探知機や小型飛行機を活用しながら沈没現場の特定を進めていきます。
さらに、フロリダ州政府から正式な許可を取得し、考古学者、ダイバー、投資家を募り、本格的な引き揚げを開始しました。
こうして、彼が設立したのが「リアルエイト社」です。
リアルエイト社のチームは、吸引機を用いた精密な調査を行いながら、
海底に眠る財宝を一つずつ掘り起こしていきました。
その結果、発見されたのは、宝石、エメラルド、中国の磁器、銀製品、金と銀のインゴット、
そしてついに、コブコインの8エスクード金貨が姿を現します。
海底から引き揚げられたコインの総数は、
金貨 約1万枚、銀貨 約10万枚にのぼるとされています。
200年以上もの間、静かに眠り続けていたコインたちは、再び光を浴び、
その歴史的価値が改めて認識されることとなったのです。

▲この時のキップ・ワグナーらの財宝引き上げは書籍化され日本語訳が刊行された
「1715年銘」の特別な意味
1715年艦隊の沈没によって、多くのコブコインが海へと消えました。
そのため、「1715年」銘のコブコインは、発見される機会が限られており、現存数が極めて少ないとされています。

▲沈没船から引き揚げられたコインには証明書が発行された
かつて、ヘリテージ社はこの沈没船について、次のように表現しました。
「これらの膨大な発見により、これまで知られていなかった貨幣が発見され、最終的には希少な金のコブが『一般的な』ものになりました
(ただし、コレクターにとっては依然として非常に高級品です)。」
今日、これらのコインは、単なる金貨としての価値を超え、スペイン帝国の栄華と衰退、そして歴史に刻まれた海難事故の象徴として、コレクターたちを魅了し続けています。
1715年艦隊が残した財宝は、単なる金銀の輝きではなく、300年にわたる人々の探求と、歴史そのものの重みを宿しているのです。
コブコインの現在
コブコインは、植民地時代の南米で産出された金銀で製造され、世界の経済を大きな影響を与えてきました。
その中で8エスクード金貨は、歴史の舞台から一時的に姿を消し、数百年もの悠久の時を海底で眠り続けていました。
沈没船が発見され、1715年以来の長い眠りから醒めた宝物品の数々は、世界中に残されていた断片的な「ピース」たちと共鳴し、コブコインの存在を改めて世に知らしめることになったのです。
「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたスペインが生んだコブコインの輝きは、今もなお世界中のコレクターを惹きつけてやみません。
メキシコ フェリペ5世 8エスクード金貨 (コブ)の価格推移
刻印が残っていてセンターストライクのものほど人気ですが、希少なため状態にかかわらず高値での落札がみられます。
デザインに様々なバリエーションがあるので、好きなものを見つけてみるのはいかがでしょうか?
UNC Details (Removed From Jewelry)
ジュエリーから外したというマイナス評価ですが、刻印がしっかりと残っているため、高値での落札になりました。

2024年11月1日に$22,200で落札。
AU58

2025年1月13日に$38,400で落札。
MS64

2024年8月15日に$40,800で落札。
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