フランス皇帝ナポレオン3世とは?人気の100フラン金貨と帝政時代の歴史の背景、現在の価格推移

「ナポレオン」という名前を聞くと、思い描くのは「ナポレオン・ボナパルト」かもしれません。ヨーロッパの歴史に名を残す存在であり、馬に乗る勇ましい肖像画は一般的にもよく知られています。しかし、今回ご紹介する「ナポレオン3世」となると、ピンとこないかもしれません。実際には、現在のパリの街の基本的構造を作り上げたのは今回ご紹介するナポレオン「3世」でした。

日本とも縁があり、江戸幕府とも交流があったフランス皇帝。今回は、激動のヨーロッパを生きたナポレオン3世の生涯と統治していた時代や歴史背景についてのご紹介です。

 

ナポレオン3世 100フラン金貨

ナポレオン3世100フラン金貨 表裏

基本データ

コイン名 フランス ナポレオン3世 100フラン金貨
通称 ナポレオン3世 100フラン金貨
発行年 1855年〜1859年(無冠)|1862年〜1870年(有冠)
フランス
額面 100フラン(100 Francs)
種類 金貨
素材
発行枚数 約45万枚:そのうち前期(無冠)が約35万枚・後期(有冠)が約10万枚
品位 Au 900
直径 35.0 mm
重さ 32.25 g
統治者 ナポレオン3世
デザイナー ジャン=ジャック・バール(Jean-Jacques Barre)
KM #786
表面のデザイン 右向きのナポレオン3世(有冠は月桂冠を着けている右向きのナポレオン3世)とラテン語のレジェンド
表面の刻印 NAPOLEON III EMPEREUR BARRE(皇帝ナポレオン3世・首元にデザイナーの名前)
裏面のデザイン フランスの紋章とラテン語のレジェンド
裏面の刻印 EMPIRE FRANÇAIS 100 FRs ミントマーク 年号(フランス 100フラン)
ミントマーク:A(パリ)・BB(ストラスブール)
エッジのタイプ レタリング
エッジの刻印 DIEU PROTEGE LA FRANCE(神の恩恵を受けるフランス)

 

フランス皇帝「ナポレオン3世」が誕生するまで

ナポレオン1世ことナポレオン・ボナパルトの甥として生まれたナポレオン3世。19世紀後半のフランスで権力を振るった皇帝の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。

叔父ナポレオン1世の絶頂期に誕生したナポレオン3世

ナポレオン1世の弟、オランダ王ルイ・ボナパルトの第3子として生まれたのがナポレオン3世です。幼少期はルイ=ナポレオンと呼ばれたナポレオン3世も、ホラント王国の王子として誕生しています。ナポレオン3世が生まれた1808年は、ナポレオン1世が皇帝となって4年目。まさに彼の絶頂期でした。

スペイン遠征中であったナポレオン1世は、一族に生まれた男の子の誕生を祝って、遠征軍に祝砲をうち鳴らさせたという記録が残っています。また、彼に「シャルル=ルイ=ナポレオン」と名を与えたのも、叔父のナポレオン1世であったのです。

若き日のナポレオン3世と複雑な政情

フランスの英雄としてもてはやされるナポレオン1世。その人生は革命に始まり共和制や帝政など、目まぐるしく変化するフランスで生きていました。

それはつまり、甥であったナポレオン3世にとって、難しい人生のかじ取りを余儀なくされました。恵まれた出生から、1848年のフランスの大統領就任、そして44歳で1852年からフランス皇帝となるまで、ナポレオン3世はどんな日々を過ごしたのでしょうか。

ナポレオン1世の失脚とボナパルト家の危機

ナポレオン3世が初めて叔父であるナポレオン1世に会ったのは、ナポレオン1世がセント・ヘレナ島に連行される直前であったといわれています。当時、ナポレオン3世は7歳。英雄であった叔父の記憶が、幼きナポレオン3世の中にどのように残っていたのでしょうか。

1815年、ナポレオン1世の没落により、一族とともに追放され、スイスで母オルタンスと亡命生活に入ります。

ナポレオン1世の熱狂的な崇拝者であった母オルタンスの影響は大きかったようです。母オルタンスはナポレオン1世が失脚してからも、「ボナパルト家は欧州において積極的な役割を果たすべきだ」と、息子たちに語り続けました。

王政の復活と若き日のナポレオン3世

亡命中、フランスでは1830年の7月革命でルイ=フィリップの七月王政が成立します。若きルイ=ナポレオンは陰謀を企み、1836年にはストラスブールから支持者と共にフランス帰還を試みましたが失敗。ロンドンやアメリカを転々とし、1840年8月、ナポレオン1世の遺骸がパリに帰還したのに乗じ、突如ブーローニュに上陸。クーデターを企てますが、再び捕らえられ、終身犯としてパリ北東のアム要塞に監禁されました。

2月革命の絵画

▲ナポレオン3世の躍進のきっかけとなった2月革命の様子

1848年の2月革命でルイ=フィリップの七月王政が倒れます。そのときすでに、ナポレオン1世の子供であるナポレオン2世と親族もほとんど他界。ナポレオン3世がナポレオン家の唯一の後継者になり、ナポレオン3世は一族の年長者として「ナポレオン=ルイ・ボナパルト」と名乗るようになります。次第に、国民的な人気を獲得することになりました。

 

「皇帝」としてのナポレオン3世

1852年に44歳で国民投票によりフランス皇帝となった、ナポレオン3世はどんな日々を過ごしたのでしょうか。叔父の1世と比べるとその業績も過小評価されがちです。若いころから各国を見聞し、苦い経験も多かったナポレオン3世。皇帝としてのナポレオン3世は、どんな人であったのでしょうか。

ナポレオン3世の肖像画

▲髭が特徴的な肖像画

日本の将軍徳川慶喜とも交流。ナポレオン3世の巧みな外交とは

江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」。徳川慶喜は、西洋風の軍服姿を写真に残しています。実はこの軍服や軍馬は、ナポレオン3世からの外交上の贈り物でした。

1860年頃、西ヨーロッパでウィルスによりカイコが壊滅に近い状態になりました。これに対し江戸幕府はフランスにカイコの卵を寄贈。その返礼としてナポレオン3世からアラビア馬が送られました。

その後も続いたフランスとの外交により、ナポレオン3世から徳川慶喜に軍服が送られました。

西洋の軍服を着た徳川慶喜

▲西洋風の軍服を着た徳川慶喜

帝政の栄光を理想としたナポレオン3世は、フランスの威信を対外に示しました。彼の時代に2度も開催されたパリ万国博覧会は、その外交戦略のひとつです。徳川慶喜の弟である徳川昭武は、このパリ万博を訪れています。

パリの「大改造プロジェクト」

ナポレオン3世が力を入れた事業のひとつが、パリの都市改造でした。それまで、中世の街並みを残してインフラも満足ではなかったパリの町を、近代的に改造したのがナポレオン3世でした。

区画を整理し直し、道路や公園・広場・水道・街灯などを整備し、近代都市としての「首都パリ」に生まれ変わらせました。

これは、セーヌ県知事のジョルジュ・オスマンによって実施されたため「オスマンのパリ大改造」と呼ばれています。

上空から見たパリ市内の写真

▲上から見たパリ市内。区画が整理されている。

皇帝位の失脚とその後の評価

ナポレオン3世は積極的な外交を展開したものの、冒険的な外交政策での失敗をきっかけに権威を失墜します。

ハプスブルク家が絡んだイタリア統一戦争やメキシコ出兵がその例で、とくに後者の場合はハプスブルク家のマキシミリアン大公を見殺しにする結果となり、ナポレオン3世の評判を落とします。

そして、ナポレオン3世の失脚を決定的にしたのがプロイセンとの普仏戦争でした。1870年9月にフランスは降伏し、ナポレオン3世は捕虜となってしまいます。当時すでに60歳を超えていたナポレオン3世は、あっさりと降伏し退位します。

のちにその報を受け取ったウージェニー皇后は「戦いに敗れたのに、名誉を守るためになぜ自殺しなかったのよ!」とわめき散らしたそうです。

その後は家族でイギリスに亡命。その2年後の1873年、64歳でイギリスで死去しました。

「叔父の名声だけを利用して、陰謀と人気取りによって権力を手に入れたに過ぎない」という評価が根強いナポレオン3世。しかし彼の残した功績には、投資銀行の設立や鉄道の普及、万国博覧会の開催とパリ大改造、そして自由貿易政策への転換。これによって、フランスは産業革命を達成することができたといえます。

 

ナポレオン3世 100フラン金貨のデザイン

その彼が、1855年から発行開始したのが100フランをはじめとする金貨です。

表には、月桂冠をかぶった皇帝としてのナポレオン3世、右向きの肖像。裏側には、麗々しいボナパルト家の紋章が描かれています。

ナポレオン3世の金貨のもう一つの特徴は、流通していた数が多かったために現在でも入手しやすいことです。オークションなどでも見かけることが多いため、アンティークコインの世界に足を踏み入れようとしている方にもおすすめのコインです。

 

ナポレオン3世 100フラン金貨の価格推移

ナポレオン3世の金貨には発行時期により、「無冠」と月桂樹の冠をつけた人気のある「有冠」の2種類があります。

年号によって発行枚数が異なるため、価格にも差が出ます。通常貨のスラブ入りであれば$3,000前後からとお手頃なものもあります。100フラン金貨以外にも、5フラン・10フラン・20フラン・50フラン金貨が発行されています。

特別仕上げのプルーフやピエフォー(倍厚)など、ナポレオン3世の状態が良い希少な金貨をご紹介します。

無冠

月桂冠を着けていない「無冠」のご紹介です。

MS63 Proof Like

MS63 Proof Like

2022年5月6日に$9,000で落札。

MS65

MS65

2020 年1月13日に$43,200で落札。

エリアス・バーグコレクションより。

SP64★

SP64★

2018年1月8日に$144,000で落札。

モーティマー・ハンメルコレクションより。

有冠

月桂冠の冠をかぶっているものを「有冠」といいます。

AU53

AU53

2014年8月8日に$123,375で落札。

発行最後の年である1870年は、10,460枚製造されました。しかし、プロイセンがナポレオン 3 世を破った普仏戦争が終結した後、この年号の大部分は戦争での損失の部分的な補償としてドイツに送られました。

後にドイツによって溶解されましたが、現存しているものは何らかの理由で流通などで溶解されるのを逃れたものだけでした。そのため、この100フラン金貨も流通の跡が残っています。

PR64 Ultra Cameo Piefort Essai

PR64 Ultra Cameo Piefort Essai

2021年3月25日に$288,000で落札。

プルーフで「Piefort(ピエフォー)」と呼ばれる、倍の厚さでの特別製造のため「ESSEI」の「E」の文字が肖像の下に刻印されています。

PR65 CAMEO

PR65 CAMEO

 2021年3月25日に$288,000で落札。

パラマウントコレクションより。

プルーフでの特別製造のため「ESSEI」の「E」の文字が肖像の下に刻印されています。

 

ナポレオン3世 100フラン金貨にご興味はありませんか?

  • 現在、ナポレオン3世 100フラン金貨をお探しの方
  • ナポレオン3世 100フラン金貨を保有していて売却を検討している方
  • 何かアンティークコインを購入してみたいけれど、どれを買えばいいのかわからない方

今すぐLINEでギャラリアの専任スタッフにご連絡ください。無料でアンティークコインやマーケットの情報、購入・売却方法など、ご相談を承ります。