舞台「王様と私」のモデルとして有名なタイの国王ラーマ4世が発行した象の銀貨とは?

ここ数年、人気が急激に高まっているためにお問い合わせもたくさん頂くアジアのコイン。中国コイン以外にも東南アジア、特にタイ・カンボジア・ベトナム・ミャンマーなどのコインの人気が高まっています。

あの有名な作品のモデルにもなっているラーマ4世。現在もバンコクにある名前を冠する「ラーマ4世通り」は、シーロム地区を東西を通る大通りです。

今回はその中でも金貨や銀貨の発行数が少なく、デザインの可愛らしさからも人気のタイのコインのご紹介です。

タイ ラーマ4世 2バーツ銀貨

基本データ

コイン名 タイ ラーマ4世 2バーツ銀貨または1/2タムレング銀貨
通称 タイ 象 2バーツ銀貨
発行年 1863年
タイ バンコク
額面 2バーツまたは1/2タムレング|2 Bahts=1/2Tamlung
種類 銀貨
素材
発行枚数 不明
品位 Sv900
直径 37.0 mm
重さ 30.2 g
統治者 ラーマ4世
デザイナー -
カタログ番号 Y# 12
表面のデザイン
表面の刻印
裏面のデザイン
裏面の刻印
エッジのタイプ ミルド
エッジの刻印 -

ラーマ4世のおいたち

1804年10月18日、タイ(当時のシャム王国)のバンコクのサイアムにあった旧宮殿(トンブリー宮殿)で、ラーマ2世とブンロット王女の息子であるイツァラスントーン王子の次男として生まれました。

王子の時の名前はモンクット(มงกุฎ:王冠)といいます。

僧侶への道と王位継承

この時代の王位継承権はとても複雑です。

20世紀初頭のラーマ6世の時代まで、タイの国王たちはたくさんの側室を迎える一夫多妻制を慣習としていました。そこには政治的な意味もありました。

父王のラーマ2世の次の王位継承権は息子たちに委ねられました。父王の考えで、たくさんの子どもたちの中でもモンクットに王位継承権がありましたが、学業に専念するために、兄でありのちのラーマ3世に王位を譲りました。

父王が亡くなった1824年の時点で、すでに多くの官公庁での勤務を経験しており、ラーマ2世の晩年には事実上王務を代行していたためです。

1824年、モンクットは20歳になると一定期間僧侶になるというシャムの伝統に従い、即位までの27年間は出家して寺院にいました。そこで、タイのお経に使用されている言語であるパーリ語とサンスクリット語をマスターしました。

出家した年、父王が亡くなります。伝統によれば、王位継承権1位のモンクットが次期国王に即位するはずでした。しかし貴族たちは正妻である王妃ではなく側室の子でより年上の影響力と経験を持つチェツァダボディン王子(ナンクラオ)を即位させてしまいます。

モンクットはこの王位継承は不当なものと認識し、政治的な陰謀を避けるため、僧侶の身分でいることを選びました。

僧侶として国中を旅している最中に出会った僧侶たちがパーリ経典の規則を緩めているのを目にしました。モンクットはそれを不適切だと考え、タイの仏教自体のあり方に疑問を感じていたそうです。

その後、キリスト教宣教師の手を借りて、英語・ラテン語を学びます。ルネサンスを通じて教義が合理化されたキリスト教に触れ、「新時代の宗教は合理化されたものでなければならない」と感じ、俗信を排除した新しい仏教を建てました。このとき新たに始まった革新派の仏教集団を”タマユットニカーイ”と言います。

僧侶から国王へ

ラーマ4世の正式名称は、「พระบาทสมเด็จพระปรเมนทรรามาธิบดีศรีสินทรมหามงกุฎ พระจอมเกล้าเจ้าอยู่หัว พระสยามเทวมหามกุฏวิทยมหาราช(パーイバート・ソムデット・プラ・パラメーンラマティボーディー・スィーシン・マハーモンクット・プラチョームクラオ・チャオ・ユー・ホワ・プラ・シャーム・テーワマハー・クット・ウィッティヤー・マハーラート)」です。

タイの国王の正式名称はとても長いことで知られています。

国王への即位後は、西洋との関係を重視し、イギリスからアンナという女性を家庭教師として招き入れ、西洋の教育を導入します。モンクット王は後に優れた英語力で知られています。

このときのことは小説『アンナとシャム王』に書かれていますが、のちにアンナに虚言癖があったことがわかったため、この小説の内容はあくまでも創作としてとらえられるようになりました。

この小説は1956年に最初に映画化され、『王様と私』として何度も舞台化、『アンナと王様』としても映画化がされましたが、「国王に対する不敬な描写がある」としてタイでは上映が禁止されています。

1854年には清への朝貢を止め、トンブリー王朝以来つづいていた冊封体制から脱しました。1855年にイギリスと通商貿易に関する「ボウリング条約」とよばれる不平等条約を締結。同時に3%の関税と領事裁判権を認めることになりましたv。

西洋と自由貿易を開始し、米を輸出するようになりました。このため、タイの中央の平原部に運河が多く建設され、米の増産がはかられました。現在においても米はタイの大きな輸出品目です。外国人の往来も増えたため、「ニューロード(ジャルンクルン通り)」を建設しました。

27年間独身を貫いたモンクット王は、チャクリー王朝最大の王族を築き上げようとしました。モンクット王は30人を超える妻がおり、64歳で亡くなるまでに39人の息子と43人の娘、計82人の子供がいました。

▲ラーマ4世の子供達たち

 

象の2バーツ銀貨のデザインと発行された当時のタイの時代背景

コインが発行された1863年、タイでは何が起きていたのでしょうか。

この頃、お隣の国カンボジアの宗主国としてシャム王国は強く影響を与えていました。1861年、カンボジアの王位継承などの反乱に巻き込まれたノロドム王はシャムのバンコクへ亡命しました。しかそこの年、フランスはシャムの承認無しでカンボジアを保護下に置くことを決定しました。

2バーツ銀貨のデザインにみるタイ国民にとっての”象”とは

表面の中央にラーマ4世の王冠とその両側に国王の日傘が。

裏面はチャクリーの輪の中央に象のデザインです。

タイ王国と国民にとっての”象”とは、特別な存在です。タイ語で「チャーン(ช้าง)」といいます。国内外で親しまれているビールの名前にもなっています。

▲バンコク都庁の旗

記録によると、100年前には森林伐採のために10万頭もの象が飼育されていたそうです。

かつて他国との戦争では「戦象」といわれる象に乗って戦いました。象は国王を守り、先頭を切って戦う勇気と誇りの象徴とされています。

また、現在でも多くのタイ国民が大切にしている仏教の中では「ブッダの母は、ある日白い象がお腹に入る夢を見てブッダを身ごもったことを知った」というお話があります。

1916年まで採用されていたタイ王国の国旗は、赤い地に白い象が描かれたものでした。

そして、白い象を発見したらすべて国王に献上しなければならないという法律まであります。

研究者としてのラーマ4世

2003年に世界遺産に登録された「ラームカムヘーン大王碑文」を発見した人物でもあります。ラームカムヘーン大王碑文(ศิลาจารึกพ่อขุนรามคำแหง)は、13〜15世紀のタイ王朝スコータイの王ラームカムヘーンによって作られたとされる碑文です。

▲ラームカヘーン王碑文

1833年、タイ国王に即位する前の出家中であったラーマ4世がスコータイの旧市街から発見したものとされています。ラーマ4世はこの碑文の解読を行いました。碑文の内容は、スコータイが資源に富み、商人には税が課せられない理想的な国家であったこと、王自身が住民と直接接して裁判が行われ、問題を解決していた様子などが描かれています。

タイ科学技術の父としてのラーマ4世とその最期

近代の地理学をはじめとする「西洋の科学」を導入しました。国王の名前がついているキングモンクット工科大学は、科学技術者の養成を目的として設立され、タイ王国を代表する国立工科大学です。

「小惑星151834 モンクット」は、この国王とその天文学およびシャムの近代化への貢献を称えて命名されました。

ラーマ4世が独学で学んだ天文学によって日食の場所・時刻を発見したと言われています。1868年8月18日、プラチュワップキーリーカンを訪れ、予測通り日食を観測できたといわれています。

この日は現在「科学の日」として制定されています。

しかし、観測場所に選んだサームローイヨート付近はマラリアのはびこる地帯であったため、ラーマ4世はマラリアに感染。6週間後に崩御しました。

▲ラーマ4世のメルマット(เมรุมาศ:王立火葬場)

ラーマ4世が崩御した際、タイ国民が王の亡き姿を見ることができたのは、火葬の数日前にサナムルアンのメルマットに運ばれた後でした。

この王とその王族の火葬のためのメルマットはヒンドゥー教と仏教の神聖王権思想に基づいて建てられていました。国王は半神的存在であると信じられており、メルマットは宇宙の中心でその頂上には神々の住処があり、国王は死後そこへ帰るとされていました。

この巨大なメルマットを建立する習慣が最後に見られたのは、ラーマ4世の葬儀でした。後継者のチュラロンコーン王は、労力と費用の無駄遣いを意識し、火葬用には簡素なものを建立するように命じました。火葬後、メルマットは解体され、その資材などは仏教寺院や慈善団体に寄付されました。

王室の火葬の儀式は歴史的に盛大で祝賀的な行事でした。国王の火葬の儀式は通常14日間昼夜問わず続きました。そして仏舎利の行列や盛大な花火など数日間にわたる行事として行われました。

現在、ラーマ4世の遺灰は自身の寄付で建立したバンコクの第一級王室寺院、ワット・ラーチャプラディット・サティッマハーシーマラーム(วัดราชประดิษฐสถิตมหาสีมารามราชวรวิหา)に埋葬されています。

国王の日食の研究を「伝説」として描いた壁画も展示されています。

 

タイ王国の貨幣の歴史とラーマ4世が発行した銀貨とは?

この2バーツ銀貨はシャム王国が発行した最初の流通貨幣です。

物々交換から交易が始まり、古くはタカラガイの貝殻などが使用されてきました。

もともとラーマ1世から3世の間で使用されていた法定通貨「ポットドゥアン(พดด้วง)」と呼ばれる通貨の使用をやめる動きの始まりとなりました。

弾丸のような形をしているので、「バレットマネー」とも呼ばれています。

▲1バーツ金貨(The Charles J. Opitz Collectionより)

ラーマ4世の時代のバレットマネーは貨幣の近代化へ切り替えのための短い間での発行でした。当時のタイには大量の金が流入していたため、国王は流通貨幣に金の貨幣を導入しようと真剣に取り組みました。イギリスでの金貨の発行など、他国で金貨が広く普及していたことに触発され、ラーマ4世は国内使用のために金貨の発行を命じました。

19種類以上の金貨を発行したにもかかわらず、どれも一般的に受け入れられることはありませんでした。

これらの金貨は1863年10月29日に正式に発行が開始されましたが、1908年に使用が中止されました。

1857年、イギリスのヴィクトリア女王は小型の手動式コイン製造機をタイ王室へ贈りました。

ラーマ4世は最初の硬貨を製造しました。この平らな硬貨は「リエン・バンナカーン」(王室献上硬貨)と呼ばれました。しかし、1日に製造できる枚数が少なかったため、最終的にこの機械の使用停止が命じられました。

当時、イギリスから新しい蒸気駆動式機械が導入されていました。ラーマ4世は王宮の王室宝物庫の前にシッティカーン王立造幣局の建設を命じました。

▲ほぼ純金で製造された金打ちの2バーツ(1864年発行)

その後、次の国王ラーマ5世の時代はフランスのパリ造幣局などに製造を依頼するなど、タイ王国の貨幣は近代化を辿ります。

 

タイ ラーマ4世 2バーツ銀貨 1863年 の価格推移

今回ご紹介する2バーツ銀貨の他には、1・1/2・1/4・1/8・1/16バーツ銀貨の6種類の銀貨が発行されています。

それぞれ発行枚数が不明のため、スラブ入りでハイグレードのものは特に人気で高額での落札となっています。

AU55

2025年4月6日に2,400ドルで落札。

AU58

2025年4月6日に3,840ドルで落札。

MS63

L. William Libbert Collectionより。

2024年12月8日に9,000ドルで落札。

 

 

▲原稿はタイが大好きなれーこが担当致しました。(2024年タイ王宮にて)

 

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