お茶がお金代わり!?アジアの貿易と通貨の歴史を語るティーブリックマネーとは?

四角くて大きいこちら、実はお茶を固めて作った「ティーブリックマネー」と呼ばれるものなんです。
世界では金属以外のものが交易に使われてきた歴史があります。パルミジャーノチーズや貝殻、ビーズやカカオ豆、古代ローマ時代の塩やヤップ島の「石貨」などの「原始貨幣」があります。
いわゆる政府が発行している「貨幣」と違い、貨幣のような役割を果たした代替貨幣と呼ばれるものです。
ティーブリックマネーは中国全土をはじめ、シベリア・チベット・ロシア・モンゴル・トルクメニスタンなどで使用されていた歴史があります。
当時、アジアでの交易に使用されていた銀に交換することもできました。
この代替通貨を使用していた最も有名な国の一つは、中国です。実際に、中国の皇帝自身がティーブリックマネーの生産を推奨していたことで知られています。

特に、19 世紀のティーブリックは非常に希少と言われています。長距離輸送などにも耐えられ、持ち運びが容易な貨幣として流通していましたが、お茶として飲むこともできました。いわゆる「食用」にもできる代替貨幣は、時間の経過とともに人々に消費されてしまうため、希少とされています。
ティーブリックマネーがどのように作られて使用されてきたのか、その歴史を解説します。
中国 その他 ティーブリックマネー

基本データ
コイン名 | ティーブリックマネー|Tea brick money|磚茶貨幣 |
---|---|
通称 | ティーブリックマネー |
発行年 | 1953年〜1977年 |
国 | 中国その他 |
額面 | - |
種類 | 代替貨幣 |
素材 | 茶葉 |
発行枚数 | 不明 |
品位 | - |
直径 | 185 mm x 238 mmなどさまざま |
重さ | 1150 g(多少前後する) |
統治者 | - |
デザイナー | - |
カタログ番号 | - |
表面のデザイン | 寺院など |
表面の刻印 | - |
裏面のデザイン | 分けるための溝など |
裏面の刻印 | - |
エッジのタイプ | - |
エッジの刻印 | - |
なぜ”茶葉で出来た分厚い板”が代替貨幣として使用されるようになったのか

ティーブリックマネーが通貨として使用されていたという最初の記録は、1844年から1846年にアジアを旅したフランス人宣教師エヴァリスト・レジス・ユックによって記録されています。彼は、ティーブリックが商品の購入だけでなく、賃金の支払いにも使用されたと記しています。
馬や羊などの家畜なども「ティーブリックいくつ分」というように試算されることもありました。
代替貨幣として使用されるようになったのは、茶葉の種類・重量・内容物の純度が標準化されているという利点があったためです。他の取引での判断基準となることが多く、さまざまな国やコミュニティ間の取引での使用において、このティーブリックが大部分を占めていました。

ティーブリックマネーには割って使用するための溝があり、一度にすべてを使用するのではなく、用途によって少しずつ使用することもできました。
また、茶葉を加工していることによりその鮮度も保ちつつ持ち運びやすいことから、地域をまたいだ取引に最適で、なおかつ飲用することもできたため同じ時代の代替貨幣の中でも特に人気がありました。
モンゴルやシベリアでは金属の貨幣よりも好まれて使用されていました。遊牧民族の多い地域では商品や食品を購入する商店も少なく、物々交換のような交易が行われていたからです。

▲HSBC(香港上海銀行)保有のティーブリックマネー。1800年代。中国北東部のものとみられる。
ティーブリックが生産されている地域では一般的で認知度も高かったため、代替貨幣としての価値は下がっていました。しかし使用する地域が生産地から遠くなるにつれて、ティーブリックマネーの価値は大幅に上昇するという仕組みでした。
ティーブリックの使用の歴史
チベットと中国の元の王朝時代には「茶馬」と呼ばれる国家機関があり、中国茶とチベット馬の取引を監督していました。軍用の馬を購入する際には、ティーブリックを通貨として使用しました。
英領インドの銀貨が一般に流通するようになると、徐々に使用される地域は減っていきましたが、アジアの農村部やソビエト東部では、第二次大戦まで使用されたという記録もあります。

▲船から投げ込まれるティーブリック。
1773年12月16日に起こった「ボストン茶会事件(The Boston Tea Party)」で海に投げ込まれたのも、このティーブリックマネーでした。
イギリスの東インド会社により東西交易が発達したことによりヨーロッパなどへの茶葉の輸出が増え、輸出量は50年で40倍になりました。特に上流階級の貴族たちが好み、その後庶民へと波及したため消費が拡大しました。
自国で生産出来ない茶葉は当時から希少なものとして扱われ、イギリスは一時的に500%の関税をかけたという記録もあります。
ティーブリックマネーの作り方
ティーブリックマネーにはプーアル茶としても知られる「黒茶」と呼ばれる発酵した茶葉が使用されています。
ティーブリックマネーに使用される茶葉の作り方は、普段わたしたちが飲む中国茶と変らない製法で作られています。
まずは茶葉を摘み、太陽の光のもとで自然乾燥させます。完全に乾燥したら茎から葉を取り除き、細かく挽き、ふるいにかけてから布袋に入れ、沸騰したお湯の入った大きな釜の上で数分間蒸します。完璧に蒸された葉は金属製または木製の型に入れられ、米のとぎ汁で湿らせて気泡が発生しないようにします。この段階で、牛やヤクの血・小麦粉または動物の糞を追加します。型に入れた茶葉をスクリュープレスでしっかりと圧力をかけ、成形した後6時間冷却します。その後重量を厳しく測量し、更に乾燥させたものを紙に包んでティーブリックの完成です。
水圧プレス機が導入された時代から、エンボス加工や寺院などの図柄を刻印することが出来るようになりました。油圧プレス機が使用されるようになり、さらに繊細なデザインを表現できるようになりました。

▲中国・四川省西部。約140kgのティーブリックを背負ってチベットへ向けて出発するところの様子。1908年7月30日撮影。
チベットから中国各地への輸送は動物や人の力によるもので、輸送には4ヶ月から6ヶ月を要しました。その間に熟成が進むように、茶葉には特別な処理がされていました。
代替貨幣としての価値
ティーブリックの代替貨幣としての価値は、使用されている茶葉の品質によって決まりました。品質は5段階に分かれていました。
それぞれの茶葉は段階によって色や茎と葉の混合の比率や、発酵の仕方もそれぞれ異なります。最高品質のものは濃い茶色をしており、しっかりと発酵・熟成された茶葉が使用されています。最高級の茶葉は中国の貴族や政府の高官、チベットの上級僧侶の元へ送られます。
最も品質の悪いティーブリックは濃い黄色で、木の削りかすや小枝などが入っています。品質の悪い茶葉の色を良くするために、少し煤(すす)を混ぜ込み、色を調整されることもありました。
代替貨幣として利用される茶葉は上から3番目の品質レベルで、チベット人が「brgyad pa(8番目)」と呼んでいたものでした。これは当時のチベットの貨幣価値として、1ティーブリックマネーが8チベットタンカ分であったためです。

▲「茶馬道(Tea and Horse Road)」にてラクダがティーブリックを運ぶ様子。
ちなみに、1900年頃のモンゴルでは良質のティーブリック12~15個で羊が1頭、チベットでは120~150個でラクダ1頭を買えました。
中国・唐の皇帝太宗の姪のひとりである文成公主は、640年にチベット王に嫁ぎました。その際のの持参金の一部として馬30頭に乗せられる分の大量のティーブリックを持参しました。
中国以外のティーブリックマネー
中国が原産の茶葉を使用し、他国の工場が製造したティーブリックマネーが存在します。
その中でも、ティーブリックが特に盛んに生産されていたロシア帝国時代のものをご紹介します。
1860年代から1917年のロシアでの革命まで、中国の漢口でロシア名義のティーブリックを用いた貿易が行われていたことが記録に残っています。ロシアはティーブリックによる交易により、毛皮・鉄・銀を輸入しました。
1900年のシベリア横断鉄道の開通、そして1869年のスエズ運河開通による交通網の発展により、さらに交易は拡大しました。

▲中央アジアのティーブリック。写真左中央の「ПБ с」 はロシア人貿易商ピーター・ボグドノフのイニシャル。1900年12月29日にACハドン氏から贈られたというメモが添付されている。
中国で生産されたもの以外のティーブリックの使用は、天津条約の締結により可能になりました。
天津条約は1858年に当時の清朝がロシア帝国・フランス第二帝政・イギリス、そしてアメリカと締結したもので、関係各国はより多くの中国の港を外国貿易に開放することができました。
その結果、ロシアは1896年7月に漢口(現在の武漢市の一部)に租界を設け、公に茶葉とティーブリックの生産者になることができました。
しかしそれ以前に、ロシア人は租界を設立する前から漢口でティーブリックを製造していました。天津条約が調印されてから数年後、ロシアの茶葉商人は漢口のイギリス租界にティーブリック工場を設立しました。
最初の工場であるSWリヴィノフ商会(中国語表記:順豊洋行)が1873年に設立されました。その後、1875年にトクマコフ・モロトコフ商会(中国語表記で新泰洋行またはアジア貿易株式会社)、1878年にモルチャノフ・ペチャトノフ商会(中国語表記:富昌洋行)が次々と設立されました。

▲中国・漢口にあるロシア人が経営するティーブリック工場「Tokmakoff, Molotkoff, & Co.(トクマコフ・モロトコフ&カンパニー)」を略した「ТМиКо」が刻印されているもの
中国の漢口にあるロシア人が経営する4つのティーブリック工場のうち、モルチャノフ・ペチャトノフ&カンパニーまたはトクマコフ・モロトコフ&カンパニーが最大だったと言われています。モルチャノフ・ペチャトノフ&カンパニーは、ロシア皇帝ニコライ 1 世の親戚で漢口の上流社会で活躍していたJ.Kパノフが所有していました。
漢口に加え、福州・晋江、茶葉を輸入するための窓口であるスリランカのコロンボ、ロシアのモスクワに支社を持っていました。
ティーブリックのマーケットが漢口に移るまでは、福州がティーブリックの生産を独占していました。

▲刻印の無いロシア産のティーブリック。
ロシア向けに生産されたティーブリックは、チベットや中国向けに生産されたものとは少し違いました。チベット向けのものは、挽いていない粗い茶葉と茎を使っていたとされています。ロシア向けのものは、お茶の農家から工場に送られた廃棄されるような茶葉を使って作られたという記録が残っています。
中国を中心として製造・使用されてきたティーブリックマネーは、貿易の歴史において重要な代替貨幣でした。
ティーブリックマネーの価格推移
未鑑定のものしか存在しないため、状態によって様々な価格で取引されています。国内オークションでも数年に一度見かけますが、古い時代のものは消費されているものが多く、存在自体が希少です。長い年月が経っていますがその香りは濃厚で、今でも茶葉を飲用として使用することができるものもあります。
スタンダードなものから希少なものまで、各国のティーブリックマネーを紹介します。
湖北省 赤壁 趙李橋産 1960年代(状態はAU評価)
一番スタンダードなものはこちらのデザインのティーブリックマネーです。
サイズは188 x 240 mm。

2024年10月7日に222ドルで落札。
新山興商茶煉瓦会社製 1907年以降
ロシア人が製造したティーブリックマネーです。
ロシア語で社名「СИН-ШАНЪИКО(新山興商|Sin Shan & Co.)」の上に「КИРЛИЧИЬІИ ЧАЙ(ティーブリック)」の文字。
ロシアのウラジオストクが中国・ロシア間の茶貿易で重要な位置を占めるようになったのは、1907年のシベリア横断鉄道の完成後であると考えられています。
極めて状態の良いもの。
大きさは237x186x19mm。972g。

2019年12月5日9,600ドルで落札。
中国のロシア企業「Tokmakoff Molotkoff & Co.」1866年~1917年ごろ
会社のロゴと刻印にはウイグル文字が使用されているため、新疆ウイグル自治区またはモンゴルで流通するために作られたものといわれています。

Charles J. Opitz Collectionより。
2019年12月5日に5,760ドルで落札。
今回の記事を担当したれーこは、冒頭で紹介したデザインのティーブリックマネーを一度だけお茶として飲んだことがありますが、時間が経過しすぎているせいかお茶の風味はほとんどありませんでした。
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