英国王室「最後の放蕩王」エドワード7世とは?偉大なるヴィクトリア女王が母

 

イギリスは、女王の時代に栄えるという格言があります。イギリスが「大英帝国時代」と呼ばれた時代の女王がヴィクトリア女王。その息子であり、ヴィクトリア女王崩御後に即位したのがエドワード7世です。偉大なる女王の1人ヴィクトリアを母に持ったエドワード7世は、母からの威圧に悩まされる運命にありました。

ヴィクトリア女王の治世をヴィクトリア朝、エドワード7世が統治していた時代のイギリスは、エドワード朝と呼ばれていました。

美貌の王妃をもちながら、数々の女性たちとの浮名で知られたエドワード7世は「最後の放蕩王」の異名を持ちます。一方で、外交の分野では政治家としてのみごとな手腕を発揮し、日本、ロシア、フランスなどとの外交に尽力し、「ピースメーカー」とも呼ばれた王様でもありました。

エドワード7世の生涯とエドワード7世の金貨についてみていきましょう。

 

 

ヴィクトリア女王の「不肖の息子」エドワード7世の生まれた時代

イギリスの王室には、その時代を象徴するような女王が何人か存在します。スペインの無敵艦隊を破ってイギリスを当時の大国にのし上げたエリザベス一世、産業革命で経済的にも大国になったイギリスを象徴するヴィクトリア女王。

エドワード7世は、このヴィクトリア女王の長男です。ヴィクトリア女王は、スチュアート王家の血を引いていることから同家の男系が絶えた後にイギリス王として迎えられたハノーヴァー王家の6代目。

父母双方の血筋から、内実はほぼドイツ人であったうえ、スキャンダルが多かったハノーヴァー王家。国民感情を考慮して、ヴィクトリア女王は夫のアルバートとスキャンダルとは無縁の王室を作り上げようと努力しました。

英国王室の中では珍しく琴瑟相和す仲で知られた2人が作り出した家庭像は、当時の英国の規範と仰がれていたのです。

2人の間に生まれた子供は9人。当時としては珍しく、9人全員が成人しています。それぞれが、欧州各国の王侯貴族と結婚したため、ヴィクトリア女王はヨーロッパのゴッドマザーとも呼ばれるほどその血縁を広げました。

エドワード7世は、ヴィクトリア女王の第2子、長男として1841年に誕生。父の名をとってアルバート・エドワードと名づけられた彼は、家族のあいだではバーティという愛称が定着していました。生まれながらにして、将来の王位を約束されたプリンスであったわけです。

ちなみに、エドワード7世の父はドイツの公子であったため、エドワード7世の時代からその家系名をとって「サクス=コバーグ=ゴータ朝」と呼ばれることになります。余談ながら、このいかにもドイツ的な家名は、第一次世界大戦中に対戦国ドイツを想起させないようにとの配慮から「ウィンザー家」と改称したのです。現在のエリザベス女王も、この直系にあたります。

ヴィクトリア女王が生まれたハノーヴァー家は、スキャンダルにまみれた放埓な血で知られていました。そのため、その血を引いた息子のエドワードの教育には細心の注意を払ったといわれています。

もちろん、好色なハノーヴァー家の血は確実に、エドワード7世に流れていました。しかし後年、最後の放蕩王として名をはせた背景には、母ヴィクトリア女王の極端な教育にあったことも指摘されています。

とくに、エドワード7世の姉でドイツ皇帝フリードリヒ3世の妃となったヴィッキーが極めて賢明であったため、弟のエドワード7世はますます殻に閉じこもってしまうという悪循環も起こりました。

のちに多くの学者たちから「大器晩成型」と評されたエドワード7世の若き時代は、偉大なる母の陰でコンプレックスを肥大させることになったのです。

こんな逸話があります。52歳になっていたエドワード7世(当時はまだ皇太子)は、ヴィクトリア女王に招待された晩さん会に、2分ほど遅刻をしました。小さくなって入ってきたエドワード7世をヴィクトリア女王は鋭い視線を送ったため、エドワード7世は自席に着くことも逃げることもできず柱の陰で立ちすくんでいたというのです。

即位後のエドワード7世の功績を見れば決して愚鈍ではなかったにもかかわらず、ヴィクトリア時代を築いた母威圧のもと、エドワード7世の皇太子時代は女性たちにそのストレスのはけ口を求めることになったのです。

 

エドワード7世の青年時代|美貌の誉れ高き王妃アレクサンドラとの日々

そのエドワード7世が20歳になった頃、女優との関係が明るみに出ました。当時、父のアルバートは病床にあり、母ヴィクトリアにとってはダブルショックであったと当時の記録は伝えています。まもなくアルバートは死去。ヴィクトリア女王はそのショックの中で、息子の妃探しに奔走しました。

こうして迎え入れられたのが、デンマーク王クリスティアン9世の王女アレグサンドラでした。アレクサンドラは、欧州随一といわれた美貌に加えて、兄弟にデンマーク王やギリシア王、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世妃マリアをもつという、ブリリアントな家系の生まれです。

当時、王侯貴族の肖像画は、絵画だけではなく写真でも残される時代に移行していました。ヴィクトリア女王が息子のために選りに選んだアレクサンドラ、今でも写真からその美しさをしのぶことができます。

アレクサンドラは、時間にルーズであったという妙な欠点があったほかは、王妃にふさわしい風格を有した女性でした。エドワード7世の女性関係にも寛大で、6人の子どもも生んで王妃としての役割を果たしました。エドワード7世も、この美しい妃を愛していたようですが、にぎやかな女性関係はそれとは別に進行したようです。

また、2人の間に生まれた長男クラ―ランス公アルバートは、これまたスキャンダルの火種でした。エディという愛称で呼ばれていた長男は、その愚行が犯罪視されるほどでした。1889年に起きた同性愛者の犯罪事件の関与が噂されたほか、1888年に売春婦が8人殺されたいわゆる「切り裂きジャック」の犯人ともくされたこともあったほど。

クラ―ランス工エドワードは結婚することもなく28歳で亡くなり、のちに皇太子となったのはジョージ5世となった次男でした。

 

放蕩王の本領発揮!エドワード7世と3人の愛人たち

好色ぶりが欧州で知られていたエドワード7世には、歴史に名が残る3人の「ロイヤル・ミストレス」がいます。いわゆる、公式に認められた愛妾で、社交界においても花形として異彩を放っていました。

まず最初のロイヤル・ミストレスとなったのは、「ジャージー・リリー」の名で知られる絶世の美女です。彼女の本名は、リリー・ラングトリー。ジャージーの首席牧師の娘であったことから、ジャージー・リリーと呼ばれるようになったのです。

2人の関係は、エドワード7世が30代半ばのころから始まったようです。教養が豊かで人柄もよかったリリーは、ヴィクトリア女王やアレクサンドラ妃にも気に入られるという稀有なる女性でした。

リリーと別れたエドワード7世、しばらくは公式の愛人を持たずに過ごします。

しかし8年後の1889年、貴族出身の愛人が登場しました。「デイジーワイフ」とあだ名されるほどエドワード7世の心をとらえた彼女、子爵の娘であり立ち居振る舞いの美しさでは群を抜いていたといわれています。

エドワード7世を骨抜きにしたデイジーですが、その後貧民の救済や社会主義に傾倒するようになり、8年も続いた2人の中は1897年に終息。円満な大人の別れであったようです。

エドワード7世の最後の愛人となったのは、アリス・ケッペルという美女でした。当時、エドワード7世は56歳。アリスは28歳年下でした。68歳で亡くなるまで手放さなかった、エドワード7世の「La Favorita(お気に入り)」でした。

アリスは年々気難しくなるエドワード7世の気持ちを和らげるすべを持っていたほか、エドワード7世が病めば看護婦の役もいとわないという賢い女性であったようです。アレクサンドラ王妃もその功を認めて、宮廷に受け入れていたという美談も。

 

私生活の破天荒ぶりとは相反するエドワード7世の政治力

私生活の破天荒ぶりで知られるエドワード7世ですが、葉はビクトリア女王の懸念をものともせず、即位後は王としての力量を発揮しました。即位したのは、1901年。アラカンで、王になったわけです。

エドワード7世はエディンバラ、オックスフォード、ケンブリッジの大学で正規の教育を受けた、初めてのイギリス王です。政務も家臣任せにせず、大小の報告に目を通し納得がいかなければサインもしなかったそうです。

第1次世界大戦を前にした紛糾していたヨーロッパにおいて、1904年の英仏協商や1907年の英露協商の締結に成功し、「ピースメーカー」のニックネームで知られるようになりました。国王としての評価も、当時から非常に高かったのです。

また、女性とともにヨーロッパ各地を旅行した若き時代の経験を糧に、家臣たちも驚くような人脈をエドワード7世はもっていたと伝えられています。語学にも堪能で、各国の王侯貴族と腹を割った付き合いができたことも、彼の功績のひとつでしょう。私生活とは別に、王としての責務の遂行においては非常に生真面目な王であったのです。

 

エドワード7世のアンティークコイン

▲英国 1902年 エドワード7世 5ポンド金貨

 

近年、アンティークコインの市場でじわじわと値上がりしているのが、1902年に発行されたエドワード7世5ポンドマットプルーフ金貨です。豊かなひげを蓄えたエドワード7世の右向きの横顔、息子のジョージ5世ともよく似ていますね。この彫刻は、ウィリアム・サウレスの手による作品です。

裏面には、英国の守護聖人で騎士たちのあいだでも人気の高かった聖ジョージの姿が。ドラゴンを退治する躍動感あふれる聖ジョージの意匠は、イタリア人のベネデット・ピストルッチの手によるものです。

エドワード7世の即位の翌年に発行されたこのコイン、発行部数は8,066枚。市場に出ている数も多いため、価格がお手頃なコインとして人気があります。

 

エドワード7世の生涯

ヴィクトリア時代という英国の黄金期を築いた母のもと、長い皇太子時代を経て即位したエドワード7世。英国王室の古い体質をそのままに、内外に知られた女性好きの王様でした。いかにも王らしい威厳のある風貌もまた、古き良きヨーロッパを感じさせます。

即位後は、欧州の平和のために活躍したエドワード7世。即位期間は短かったものの、王としての手腕を発揮して、その名を歴史に残しています。