「平和」を願った名前がついたアメリカの銀貨「ピースダラー」とその歴史を解説!

第一次世界大戦の終結後、平和を願って発行されたアメリカのピースダラー銀貨は額面が1ドルの銀貨です。第一次世界大戦終結後に平和(Peace)を願って作られました。それ以前に流通貨幣として使われていた”モルガンダラー銀貨”を引き継ぐ形で発行されたものでした。これはアメリカ最後の流通銀貨になっています。
コインのデザインに使われたモチーフはモルガンダラーを踏襲していますが、平和を願うという意味で大きな違いがあります。どのようなデザインだったのか、またどのような時代背景の下に発行されたのか、深堀りしていきます。
アメリカ 1ドル銀貨 ピースダラー

基本データ
コイン名 | アメリカ 1ドル銀貨 ピースダラー |
---|---|
通称 | ピースダラー |
発行年 | 1922〜1928年、1934〜1935年、1964年 |
国 | アメリカ合衆国 |
額面 | 1ドル |
種類 | 銀貨 |
素材 | 銀 |
発行枚数 | 1億8千万枚以上 |
品位 | Silver (.900) |
直径 | 38.1mm |
重さ | 26.73g |
統治者 | ウォレン・ハーディング、カルビン・クーリッジ、ハーバート・フーヴァー、フランクリン・D・ルーズベルト、ハリー・S・トルーマン、ドワイト・D・アイゼンハワー、ジョン・F・ケネディ、リンドン・B・ジョンソン |
デザイナー | Anthony de Francisci |
カタログ番号 | KM#150 |
表面のデザイン | 光線をあしらったヘッドバンドを着用した左向きの自由の女神 |
表面の刻印 | LIBERTY IN GOD WE TRVST AF 1925 |
裏面のデザイン | 岩の上に右向きに立つ鷲、翼をたたみ、後ろから見ると、爪に枝、後ろに光線、下にPEACE |
裏面の刻印 | UNITED STATES OF AMERICA E PLURIBUS UNUM ONE DOLLAR PEACE |
エッジのタイプ | Milled |
エッジの刻印 | - |
ピースダラーとは
ピースダラーは、アメリカで最後に発行された流通用の1ドル銀貨です。1921年から1928年、1934年〜1935年、そして1964年という長い間に発行された銀貨です。
重量26.73g、直径38.1mm、厚さ2.4mm。
大型で重量感のある銀貨です。ちょうどイギリスのクラウンサイズ銀貨も同じようなサイズです。
表面のデザイン

ピースダラーの表面には、頭上に光り輝く王冠をつけた自由の女神像が描かれています。コインの上部に「LIBERTY」の文字が、そして下部に「IN GOD WE TRVST」の文字が刻まれています。また女神の首の下の所にあるアルファベットは製造場所を示すミントマークが刻印されています。
Sがサンフランシスコ、Dがデンバー、アルファベットがないのがフィラデルフィアとなっています。
表面に自由の女神を採用したのは、その前に流通していたモルガンダラーのデザインを踏襲したためです。
裏面のデザイン
裏面に描かれているハクトウワシは、モルガンダラーのハクトウワシとは明白な違いがあります。モルガンダラーでは、大きく翼を広げ今にも飛び立とうとしているハクトウワシの姿が描かれていますが、ピースダラーでは翼をたたみ岩の上に止まるハクトウワシの姿が描かれています。これは、ピースダラーの名前が示すように、このコインが第一次世界大戦の終結を記念して平和を願う意味で作られたものであるからです。
ハクトウワシは、平和の象徴であるオリーブの枝を手に持っています。右向きのワシは、コインを見る者から少し背を向けており、世界に平和の夜明けが訪れるという約束を象徴する日の出の方角を向いています。
コインの最上部に刻まれた「UNITED STATES OF AMERICA」の文字のすぐ下に、「多様から統一へ」を意味する「E PLURIBUS UNUM」の文字が刻まれています。そして最下部には「PEACE」の文字が刻印されています。
ピースダラーが発行された理由と当時のアメリカの時代背景
ピースダラーはどのような時代背景のもとに作られたのでしょうか。発行までのストーリーを追います。
ピースダラーの発行が決まった背景とは
1914年、第一次世界大戦が始まりました。当初、アメリカは中立の立場を維持していましたが、1917年から参戦し対戦が終結する1918年まで連合軍として戦闘を続けました。

▲キー・ピットマン上院議員
この頃、通称「ピットマン法」という法律が成立しました。
これはネバダ州のキー・ピットマン上院議員が提案し、1918年4月23日に制定されたアメリカ合衆国連邦法です。この法律は、最大3億5千万ドル分の1ドル銀貨を地金に交換し、それを売却または補助的な銀貨幣として使用することを認め、同数の銀ドルの再製造のために国内の銀を購入するよう指示したという法律です。
この法律に基づき、2億7,023万2,722枚の1ドル銀貨が地金に換金されました。
2億5,912万1,554枚は1ozあたり1ドルでイギリスに売却されました。これに造幣局の手数料が加算され、1,111万168枚は補助銀貨として換金されました。これは約2億900万ozの純銀量に相当します。
1920年から1933年の間にはこのピットマン法に基づき、アメリカの鉱山から同量の銀が1ozあたり1ドルという固定価格で購入され、その銀を使って2億7,023万2,722枚の新しい銀貨が製造されることになりました。
新しい銀貨を発行するにあたり、アメリカの貨幣学者たちが政府に対し「終戦を記念し平和を象徴するデザインのコインを作って欲しい」と依頼しました。美術委員会は、8人の彫刻家による新しい銀貨のデザインコンテストを開催しました。
製造直前で変更されたデザインとその理由とは

▲銀貨の自由の女神のモデルになったデザイナーのフランシスの妻、テレサ・デ・フランシス
デザイナーとして選ばれたのは、最年少で最も知名度が低かったイタリア系アメリカ人デザイナー、アンソニー・デ・フランシスでした。フランシスが提案したデザインは、その前に流通していた銀貨「モルガンダラー」のデザインに倣うもので、表面には自身の妻をモデルに描いた自由の女神が、そして裏面にはハクトウワシがモチーフとして使われています。

▲デザイナーアンソニー・デ・フランシス(左)と造幣局長レイモンド・ベイカー
実は、最初に提案されたピースダラーの裏面のデザインは、実際に発行されたものとは異なっていました。
当初のデザインには、ハクトウワシが剣を乱暴に折っている様子が描かれていました。フランシスは剣を兵器と捉え、それを折ることで平和を象徴しようと考えたのです。ところが、このデザインを発表した2日後、ニューヨークヘラルド紙が、「剣が折れるというのは敗北というイメージがある」という内容の社説を発表しました。そして造幣局・財務省・美術委員会は、デザインに異議を唱える一般市民からの大量の手紙を受け取るようになってしまいました。フランシスのデザインに対する反対の声が高まりまったため、造幣局はピースダラーのデザイン変更に迫られたのです。
第一次世界大戦のトラウマからアメリカ人は国のシンボルに非常に敏感で、芸術家や批評家たちに解釈の余地が無いようなシンプルなものを求めました。

▲デザインを制作しているフランシス
このデザインの問題が起きたのは年も押し詰まった1921年12月21日。1921年銘発行のコインのため、どうしても年内に製造することを迫られていました。しかしその時、造幣局の局長レイモンド・ベイカーはワシントンを離れ、3日間の大陸横断の旅でサンフランシスコ造幣局を訪問していました。ベイカーと連絡を取ることができなかったため、正式な許可がないまま関係者がデザインの変更を決定しました。
その結果として、折れた剣の部分を取り除き、空いた部分はオリーブの枝部を広げて調整しました。
その後出張中の局長と連絡が取れましたが、局長は変更したデザインを実際に確認できないまま、デザインの変更内容を承認しました。すでに時は12月24日。それから型(ダイ)などを準備し、実際にコインの製造が始まったのは12月28日のことでした。
1921年が終わるまでにあと4日しかないという緊迫した状況でしたが、このわずか4日間になんと約100万枚のピースダラーを製造することができました。
1928年にピットマン法で定められた発行枚数が達成されると、造幣局は発行を中止しました。
その後の法律の制定により、1934年と1935年に追加で発行されました。そしてさらに1965年、多くの論争の中デンバー造幣局は1964年銘のピースダラーを31万6000枚以上製造しまししたが、これらは発行・流通されず、すべて溶解されたと考えられています。
ピースダラーをめぐる専門家の様々な意見
1918年11月発行の『The Numismatist』誌に掲載されたフランク・ダフィールド氏の記事に興味深い内容が掲載されています。
- 第一次世界大戦後の平和を記念するアメリカのコインを発行する」というアイデアを誰が考案したのかは定かではないこと。
- 「大戦の戦勝記念硬貨は”決して希少にならない程度”に大量に発行するべきだ」と提唱。
発行当時からコインの収集家を意識していたことがうかがえます。
続いて1920年8月、貨幣学者ファラン・ザーベ氏の論文が、同年にシカゴで開催されたアメリカ貨幣協会(ANA)の大会で発表されました。「流通用コインで平和を記念する」と題された論文の中で、ザーベ氏は平和を祝う硬貨の発行を呼びかけ、次のように述べています。
--平和を象徴するコインとして1ドル銀貨を支持していると誤解されたくありませんが、近い将来に製造が再開されるでしょう。その時、新しいコインのデザインが実現可能かつ民衆の望ましいものであり、製造のための地金が国内から提供され、コインの発行に関する法律が制定され、発行数の制限がきちんと定められているならば、これらはすべてピースダラーの支持者にとって道を開く要素となります。そして、私たちは戦争にの勝利と平和の記念として、コインを発行することができます。
貨幣史家ウォルター・ブリーンによると、「どうやら、コインの収集家が造幣局だけでなく議会にも影響を与えるほどの政治的影響力を持ったのはこれが初めてだったようだ」と語りました。
1枚の銀貨のデザインをめぐって、アメリカという国が動いた瞬間でもありました。
デザイナーは表面に自由の女神の頭部を「可能な限り美しく、個性豊かに」描くよう指示されていました。ギリシア風のそのデザインは、アメリカを代表する1枚になりました。
その後のピースダラー
ピースダラーは主にアメリカ西部で流通し続けました。西部では紙幣よりも硬貨が好まれていたためですが、他の地域ではほとんど流通していませんでした。
また、ネバダ州のラスベガスのカジノでも使用されていました。1930年代から40年代にかけて大量のピースダラーが市場に出回り、1928年銘のサンフランシスコミントのものが1949年と1950年にネバダ州のカジノに多数送られたといいます。
クリスマスプレゼントとして銀行で交換する人も多かったそうです。しかしそのほとんどは年が明けた1月には再び銀行に預け入れられたといいます。
ピースダラーの種類とその他のコイン
通常の流通用の発行のほか”幻”の年号がいくつか存在しています。オークションなどで見かけることはありませんが、アメリカのコインの歴史を語る上で欠かせないエピソードをご紹介します。
”幻”の年号が存在
1921年に限定発行された幻のプルーフがあるとされています。
これは製造初期にサテンプルーフ仕上げとマットプルーフ仕上げの両方で数枚だけ発行されましたが、どちらの仕上げで作られたかは正確にはわかっていません。著名な貨幣史研究家のリロイ・ヴァン・アレン氏とA・ジョージ・マリス氏は、サテンプルーフ仕上げが24枚、マットプルーフ仕上げがわずか5枚だけ発行されたと推定しています。

▲デンバーミントの1964年銘のデンバーミントのピースダラー
そのほか、ほとんどが溶解されたと言われている1964年銘の「デンバー(D)ミント」のピースダラーがあります。
1ドルという通貨の価値よりも銀の地金としての価値が上回ってしまったため、銀貨の買い占めにより銀貨の流通自体が不足してしまいました。そのため、銀貨の追加発行が求められました。
しかしこの追加発行について貨幣学の研究者たちは「少数の特定の利害関係者を満足させるだけで、一般的な硬貨不足の緩和には全く役立たないのではないか」と不満を述べました。
政府内でも追加発行に強く反対した人たちがいました。1965年初頭、当時のジョンソン大統領に対し「そのような硬貨はモンタナ州はおろか、他のどこでも流通する可能性は低い。単に退蔵されるだけだ」と訴えました。
発行について、政府はいかなるキャンセルや延期も検討することを拒否し、1965年5月12日に1964年銘のデンバーミントのピースダラーの試験製造を開始しました。すでに用意されていた裏側のダイ(型)が主に流通先として意識されていたネバダ州ラスベガスに近いデンバー造幣局のものでした。
この時、造幣局は1964年の日付のコインを1965年まで発行し続けるための議会の承認を得ていました。
新しいコインの発行は1965年5月15日に公表されました。コインディーラーは直ちに1枚7.5ドルで買い付け、流通しないことを確約しました。
多くの国民と議員は「これは深刻なコイン不足の時に造幣局の資源を無駄に使うものであり、コインディーラーに利益をもたらすだけだ」と考えました。同年5月24日、急遽招集された議会公聴会の前日、造幣局のアダムズ長官は「これらの金貨はトライアル(試鋳)であり、流通を目的としたものではない」と突然発表し、316,076枚が製造されたことも発表しました。
そしてその後の報告によると、すべて厳重な警備の中で溶解されたといいます。
1924年銘のピースダラーを個人が所有していることは一切確認されていませんが、1970年に財務省の金庫室で正体不明のピースダラーが2枚発見されました。即座に破棄命令が出されましたが、その後すぐ「違法な個人所有で残っているものがある」という噂や憶測が飛び交い始めました。そして現在もときどきその噂は出続けています。
特に希少な年号のピースダラー
ほとんどマーケットで見かけることのないものが多い希少年号のピースダラーは、特にアメリカ国内でのコレクタブルマーケットで人気なため、入手は困難です。
◼️1921年P(フィラデルフィアミント)
- 初年号
- ハイレリーフが存在
- 限定発行枚数 1,006,473 枚

▲2022年8月24日に$126,000で落札。
◼️1922年
- 発行枚数は35,401枚と特に少ない
- ハイレリーフやマットプルーフが存在している
- 現存は10~12枚のみ知られている

▲2014年1月9日に$329,000で落札されたマットプルーフ
ピースダラー史上最も高額で落札されている1枚。
◼️1924S(サンフランシスコミント)
- 発行枚数は1,728,000枚と少なく、ハイグレードのものは特に珍しいとされている
◼️1927S(サンフランシスコミント)
- サンフランシスコ造幣局の年間発行枚数の中で最も少ない866,000枚
◼️1928P(フィラデルフィアミント)
- 発行枚数の36万枚と、フィラデルフィア造幣局の年間最低枚数となっているため
発行100周年を記念した復刻版
2021年、当時のドナルド・トランプ大統領は発行100周年を記念し、復刻版を発行することを決定しました。
その際の1世帯あたりの注文数の制限は3枚という、コレクターをかなり意識していることがわかります。
初めてピースダラーが発行された1921年から100年たった2021年、発行100周年を記念して復刻版が発行されました。また、1921年という年はモルガンダラーからピースダラーへ移行した年であったため、2021年にはモルガンダラーの復刻版も併せて発行されました。
発行場所は最初の発行場所と同じフィラデルフィアです。
したがって復刻版にもミントマークはついていません。
当初、これらの復刻版は、2022年にも継続して発行される予定でしたが、コロナ禍により物流面に問題があったため、継続した発行ができませんでした。
モルガンダラー&ピースダラー復刻版セット
アメリカ 2023年 モルガンダラーとピースダラー 1ドル銀貨2種セット リバースプルーフ | オンラインショップ | 泰星コイン株式会社
2023年、コロナ禍による物流問題が解決されたため、復刻版の発行が再開されました。この時の発行場所はサンフランシスコであったため、コインにはミントマークのSが刻印されています。復刻版としてモルガンダラーとピースダラーをセットにしたものも発行されました。
アメリカ ピースダラーの価格推移
発行枚数も多く流通期間も長かったため、マーケットでもたくさんみかけるコインです。その中でも状態の良いものは特に人気なため高値がついていますが、数万円〜と比較的入手しやすい価格帯も存在しています。
ギリシア風の女神のデザインも美しく、コインを集める時の最初の1枚としても最適です。
1922年D(デンバーミント)MS64

発行枚数15,063,000枚
2025年5月7日に$170で落札。
1924年フィラデルフィアミント MS66

発行枚数11,811,000枚
2025年5月7日に$420で落札。
1934年フィラデルフィアミント MS66

発行枚数 954,057枚
2025年5月7日に$1,860で落札。
1925年フィラデルフィアミント MS67

2025年4月30日に$2,880で落札。
いつの時代も願うのは”平和”
アメリカで1921年に発行されたピースダラー。その前に流通していた銀貨モルガンダラーがアメリカの発展・拡張を願って作られたのに対し、ピースダラーは、第一次世界大戦の終結後、平和を願って発行されたコインでした。
ピースダラーのデザインはモルガンダラーのデザインを踏襲し、表面に自由の女神、裏面にcのモチーフを採用していますが、印象は全く違うものです。
最初に裏面に採用された「折れた剣」のデザインが最終的に削除されたところに、弱さを見せたくないというアメリカ人気質が垣間見れるようで興味深いと思います。
発行枚数も多く、現存枚数もたくさん存在しているため、コイン収集の初心者の方でも比較的集めやすいコインのひとつです。コイン収集の最初の1枚として、お気に入りの1枚を見つけてみるのはいかがでしょうか?
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