皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とは?不死鳥の名を持つハプスブルク帝国の最後の栄光
ヨーロッパの歴史は、ハプスブルク家を抜きには語れません。広大な領土を誇ったハプスブルク家は、中世以来の名門として婚姻政策によって繁栄した家系です。フランツ・ヨーゼフ1世は、70年近くオーストリアの皇帝として君臨したハプスブルク家最後の光でした。妻であったエリーザベトの伝説的な美貌とともに、ハプスブルク家の終焉を飾ったフランツ・ヨーゼフ1世とはどんな皇帝であったのでしょうか。
母の薫陶のもとに育った賢明な皇子フランツ・ヨーゼフ1世
母ゾフィーとフランツ・ヨーゼフ1世
世界史に疎い人でも、ハプスブルク家という名前は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
フランツ・ヨーゼフ1世は、このハプルブルク家という欧州の名門に生まれたオーストリアの皇帝です。日本人ならば誰でも知っているマリー・アントワネットは、ハプルブルク家の皇女でした。彼女がフランス革命で王妃の座を追われたとき、冷淡な態度をとった甥のフランツ2世がフランツ・ヨーゼフ1世の祖父にあたります。
フランツ2世の跡を継いだフェルナンド1世は脆弱で子どもがなく、跡を継ぐのは弟のカール大公になるはずでした。ところが、それに異を唱えたのがカール大公の気丈な妻ゾフィです。ゾフィは当時の人々から、「ハプルブルク家の唯一の男子」と呼ばれるほど勝気な女性でした。彼女が盲愛し、厳格な帝王教育を授けたのが長男フランツ・ヨーゼフでした。フランツ・ヨーゼフ1世は、この母の期待だけではなく斜陽の趣があったオーストリア帝国の期待を一身に担って、1848年に18歳で皇帝に即位するのです。
しかし世界史の年表を見れば、その1848年はまさにヨーロッパは混乱の極みにありました。フランスでは二月革命が勃発、フランツ・ヨーゼフが即位したオーストリアでも三月革命が起こり、メッテルニッヒが辞職して亡命。ハンガリーでは独立運動がおこり、オーストリア軍と抗争開始。イタリアやイギリスでも、庶民の反乱が後を絶たなかったのがこの年です。
そのような中で即位した若く凛々しいフランツ・ヨーゼフ1世は、オーストリアの人々にとって希望の星でした。母ゾフィによって与えられた周到な教育によって、当時のフランツ・ヨーゼフ1世は自らの地位を強く意識する君主として育ちました。軍隊の重要性を理解し、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ハンガリー語を駆使できたといわれています。実際、フランツ・ヨーゼフ1世はウィーンの三月革命やハンガリーの反乱を無事に鎮圧し、人びとの喝さいを浴びたのです。
皇帝として自らを強く律していたフランツ・ヨーゼフ1世、その彼が唯一自身を主張したのが結婚相手でした。
皇妃エリーザベトとの出会いと結婚
高名な肖像画家ヴィンターハルターが描いた28歳の皇妃エリーザベト
勝気な母ゾフィには従順であったフランツ・ヨーゼフ1世が、たった一度母に反抗したのが自分の伴侶を選んだ時でした。婚姻政策によって領土を広げてきたハプルブルク家にとって、現役の皇帝の結婚は帝国の運命を決めるといってもよい一事であったはずでした。そこに、皇帝の私情などはさむべきもなかったのです。ところが、この結婚は恋愛結婚として成就する運命にありました。それは、どんな経緯をたどったのでしょうか。
当初はプロイセンの王女に的が絞られたもののこれは挫折し、結局フランツ・ヨーゼフ1世がお見合いをしたのは従姉妹にあたるバイエルン公国の公女ヘレーネでした。母后ゾフィお墨付きの従順なヘレーネはしかしフランツ・ヨーゼフ1世の目には入らず、お見合いについてきた15歳の美少女エリーザベトに一目ぼれをしてしまうのです。当時から「シシィ」の愛称で知られていた美しいプリンセスでした。
几帳面で融通がきかないフランツ・ヨーゼフ1世にとって、蝶々のように軽やかで気ままなエリーザベトは、相反する性格を持つ魅力的な相手に映ったのでしょう。母ゾフィがどんなに異議を唱えても、23歳のフランツ・ヨーゼフ1世の気持ちは変わりませんでした。
まさに、王子様とお姫様のおとぎ話といった感のあるこのエピソードですが、当のエリーザベトには「皇妃になる」ことを怖れて、「あの方が皇帝ではなく仕立て屋であったらよかったのに」とつぶやいたと伝えられています。
ゾフィにとって従順な息子の反抗は、エリーザベトとの嫁姑戦争を引き起こすことになります。現在では悲劇の皇妃として知られるエリーザベトですが、実際に厳格なウィーンの宮廷とは相いれない自由奔放さがあったことは否めません。また、早朝から政務に励む夫とも夫婦らしい語らいは望むべくもなく、エリーザベトが孤独感を深めていったことは容易に察せられます。
それでもフランツ・ヨーゼフ1世の愛は変わらず、エリーザベトが宮廷を放擲して旅に出るたびに、充分な金銭を送って妻を守り続けたのです。
広大な帝国の皇帝として
ハンガリーの王として戴冠する夫妻
フランツ・ヨーゼフ1世の治世は、実に68年に及びました。オーストリア帝国と一口に言っても、当時の帝国はまさに人種のるつぼ、ドイツ人、ハンガリー人、チェック人、ポーランド人、ルーマニア人、クロアチア人、スロヴェキア人、セルビア人、イタリア人がその支配下にありました。
多民族国家の皇帝としての憂慮は、とくにハンガリーの反抗にありました。最愛の妻エリーザベトがハンガリーを熱愛していたこともあってか、ハンガリーの自治を大幅に認めオーストリア=ハンガリー帝国を成立させたのです。これは、フランツ・ヨーゼフ1世の皇帝として、個人の力量ではいかんともしがたい時代の流れであったというべきかもしれません。
オーストリア帝国の外でも、フランツ・ヨーゼフ1世の悩みは尽きませんでした。弟マクシミリアンはベルギーの王女と結婚しましたが、彼女の野心もありメキシコの皇帝になるという途方もない計画を断行。まったく傀儡であったメキシコの皇帝位から結局追われ、処刑されてしまうのです。
フランツ・ヨーゼフの家族をめぐる不幸は、しかしこれにとどまりませんでした。
次々と襲い掛かる家族の不幸
フランツ・ヨーゼフ1世は、妻エリーザベトとの間に1男3女をもうけています。長女は幼いうちに亡くなり、成人したのは3人。男子はたった1人ルドルフだけであったため、跡継ぎとして大事に育てられました。
しかし成人後のルドルフは父帝に反抗し、政治的にも孤立してしまいます。そして、1889年に貴族の令嬢と自殺してしまうのです。30才の若さでした。この事件は、「マイヤーリンクの悲劇」として知られていますが、フランツ・ヨーゼフ1世にとっては息子を失ったにとどまらず、オーストリア帝国の跡継ぎをなくすという痛恨の事件でした。
ルドルフの自殺後、皇妃エリーザベトの放浪はさらに激しくなり、もはやフランツ・ヨーゼフ1世のもとにとどまる時間はほとんどなかったようです。そのエリーザベトも、旅行先のスイスで暗殺されてしまいます。
ルドルフとエリーザベトの悲劇は、文学や映画の世界にもインスピレーションを与えたほどドラマチックなものでした。マイヤーリンクの悲劇はその後、『うたかたの恋』という小説となり映画化されましたし、エリーザベトの生涯はルキーノ・ヴィスコンティの映画やミュージカルでも見ることができます。
謹厳な夫であり父であったフランツ・ヨーゼフ1世は、文学や映画の世界では常に脇役です。しかし、これほどの不幸に見舞われたフランツ・ヨーゼフ1世は、その後も皇帝として君臨し続けるのです。
伝説となったフランツ・ヨーゼフ1世
棺に横たわる皇帝
息子のルドルフを失ったフランツ・ヨーゼフ1世が跡継ぎと定めたのが、甥のフランツ・フェルディナンドでした。フランツ・フェルディナンドは、フランツ・ヨーゼフ1世の大反対もものともせず、ボヘミアの下級貴族の娘と貴賤結婚をし対立を深めてしまいます。その彼も、1914年に妻とともにサラエボで暗殺。これは、世界大戦の勃発につながる悲劇として、現代史でもよく語られます。フランツ・フェルディナンド大公と反目していたフランツ・ヨーゼフ1世はこの事件について、「不幸にも余が支えられなかった古い秩序を、神が立て直してくださったのだ」と冷徹に語ったそうです。
こうした悲劇を乗り越えて、フランツ・ヨーゼフ1世は68年の治世をまっとうします。もはや、生きながら伝説となり「不死鳥」と称えられていた彼が亡くなったのは、1916年。86歳でした。
皇帝位はその後、甥のカールが継ぎますが、そのわずか2年後にはオーストリア帝国は崩壊。フランツ・ヨーゼフ1世は、実質的には栄光あるハプスブルク家を最後を飾る皇帝として今の人々の記憶に残っているのです。
コインの中でも最愛の妻とともに
フランツ・ヨーゼフ1世のコインには、最愛の妻エリーザベトが女神として刻まれているのをごぞんじですか。
まず、表面には皇帝らしい風貌のフランツ・ヨーゼフ1世とともに、ラテン語で彼の肩書が彫られています。その裏面には、皇妃エリーザベトをモデルにした女神が雲上に座し、皇帝のシンボルである月桂冠と、ハプスブルク家の紋章「双頭の鷲」が描かれた盾を手にしています。
実際のエリーザベトは歯並びにコンプレックスがあり、微笑を浮かべた肖像画はほとんど残っていません。しかし、「雲上の女神」として刻まれたエリーザベトの口元には、優しい微笑が漂っています。
生前は、夫婦らしい時間を過ごすことができなかったフランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト、コインの中では片時も離れることなく寄り添っています。動乱の時代を象徴するコインとして、また夫婦のきずなを体現したコインとしても人気を誇っています。
最後に
13世紀以来、ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えてきたハプルブルク家。その最後の光として、抜群の存在感を放った皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。帝国末期を象徴するかのように、動乱のヨーロッパの動静だけではなく私生活の不幸にも見舞われた皇帝でした。しかし毅然としてこの運命を受け入れ、ハプルブルク家の栄光を守ったフランツ・ヨーゼフ1世は近代史に大きな足跡を残しています。