ウィリアム3世&メアリー2世の5ギニー金貨とは?価格推移とコインの歴史を解説
「国王は君臨すれども統治せず」
これは国民の自由と権利を保障し、国民による議会政治を保証する「権利の章典」を承認した時のウィリアム3世の言葉です。 当時のヨーロッパの中でも王の権限を制限し、国家の統治を国民に任せるという決定を下したことは画期的なことでした。
イギリス議会政治の始まりと権利の章典発布を記念し発行されたこのウィリアム3世&メアリー2世5ギニー金貨は、40gもの大型アンティークコインです。
英国の王室の歴史の中でも、最初で最後といわれている夫婦の共同君臨。妻のメアリー2世とともに英国王として君臨したウィリアム3世の存在は、歴史の中でもかなり特殊です。
カトリックとプロテスタントの抗争の時代に英国王となり、ヨーロッパにおける英国の地位を高める礎を気づいたウィリアム3世。彼は、どんな王様だったのでしょうか。
ウィリアム3世&メアリー2世5ギニー金貨の落札価格や歴史、コインの特徴等について解説します。
ウィリアム3世&メアリー2世 5ギニー金貨
基本データ
コイン名 | イギリス ウィリアム3世とメアリー2世 5ギニー金貨 |
---|---|
通称 | ウィリアム&メアリー |
発行年 | 1691年〜1694年 |
国 | イングランド |
額面 | 5ギニー |
種類 | 金貨 |
素材 | 金 |
発行枚数 | - |
品位 | Au 917 |
直径 | 37.0 mm |
重さ | 41.94 g |
統治者 | ウィリアム3世・メアリー2世 |
デザイナー | - |
KM | #479 |
表面のデザイン | ウィリアム3世とメアリー2世の肖像とレジェンド |
表面の刻印 | GVLIELMVS·ET·MARIA·DEI·GRATIA(神の恩恵を受けるウィリアムとメアリー) |
裏面のデザイン | 中央にナッソーのライオンを配したクラウンとシールド、年号とレジェンド |
裏面の刻印 | MAG·BR·FR·ET·HIB·REX·ET·REGINA·16 92·(イギリスとフランス、アイルランドの王と女王) |
エッジのタイプ | - |
エッジの刻印 | - |
革命続きで大混乱のヨーロッパ!ウィリアム3世のおいたち
ウィリアムは1650年にオランダ総督ウィレム2世とイングランド王チャールズ1世の王女メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートとの間に生まれました。父であるウィリアム2世はウィリアム3世が生まれる8日前に流行病である天然痘で死んでしまいます。
ウィリアム3世は誕生と同時にオラニエ=ナッソウ家を継承するという運命にありました。ウィリアム3世は非常に内向的で暗い性格に育っていったといわれています。
政治的外交面において、問題が山積していました。ウィリアム3世の父が務めていたオランダ総督という地位は、幼児のウィリアム3世には認められませんでした。そのため、オランダは国際的に独立を認められながら、しばらくは無総督期間となりました。
議会では派閥争いが起こっている中2度の英蘭戦争、そして1672年フランス軍がオランダに侵攻し、オランダ侵略戦争が始まりました。
さらに、ウィリアム3世よりも7歳ほど年上のフランス王ルイ14世は、虎視眈々とスペイン領であったネーデルラントを狙っていました。ウィリアム3世とブルボン王朝最盛期の王ルイ14世は、生涯を通じて仇敵となるのです。
オランダの大半が占領され、アムステルダムが陥落寸前になると、21歳のウィリアム3世がオランダ総督に就任。オーストリアやスペインと同盟を結びフランスと対抗し、ついには撤退させます。
そしてウィリアム3世率いるオランダは1678年に締結された「ナイメーヘンの和約」で領土を保証されます。オランダのピンチを救ったウィリアム3世は一躍オランダの英雄となりました。その後ウィリアム3世は、太陽王と言われたルイ14世のライバルとなります。
ウィリアム3世の家系であるオラニエ=ナッソウ家はドイツ西部ライン川周辺に勢力を誇り、14世紀からヨーロッパの歴史に名が残っています。とくに、16世紀半ばから起ったオランダ独立戦争において中心的な役割を果たし、オラニエ=ナッソウ家の当主はオランダ総督として地位を確立しました。
ウィリアム3世即位以前のイギリス
ヨーロッパの北にある島国であるイギリスはエリザベス1世の時代から勢力を強めていました。しかし、勢力を強め過ぎだせいでいつのまにか王の権力が強大になりすぎました。
1642年、当時のイギリス国王であったチャールズ1世がプロテスタントを弾圧したことが原因で「ピューリタン革命(清教徒革命)」という市民革命が起きます。国王は処刑され、イギリスは王政から共和制へと変わります。
しかし、共和制となった後は護国卿であったクロムウェルによる独裁へと変わってしまい、民衆から絶望されたイギリスは王政復古によりまた王政へと戻ってしまいました。
メアリー2世との結婚とイギリス国王の複雑な宗教の歴史
一時期は戦争をしていた英国の王女との縁談は、ウィリアム3世にとっては絵にかいたような政略結婚でした。
フランスのルイ14世はその後もオランダへの野心を隠そうとせず、オランダは英仏の同盟を切り崩すためにも英国と手を結ぶ必要があったためです。
1677年に結婚した2人は、当時27歳と15歳。メアリー2世は、カトリック教徒であった父ジェームズ2世とは異なり、イギリスの王女としてプロテスタントの教育を受けて育てられました。同じくプロテスタントであったウィリアム3世との夫婦仲は、当初は良好とはいいがたいものでした。
政治家としての資質は備えていたウィリアム3世は、容姿に恵まれていなかったということもあるでしょう。12歳差の夫婦は、夫よりも妻のほうが背が高かったとも伝えられています。
メアリー2世の父、ジェームズ2世自身はカトリック教徒でした。しかし、メアリー2世の母はイギリス伯爵令嬢でイギリス国教会教徒のアン・ハイドです。そのため、メアリー2世自身も母の影響でプロテスタントとして洗礼をうけ、成長したのです。
夫婦でもカトリックとプロテスタントと宗教が異なり、そして親子でもまた宗教が違うということは、ヨーロッパ皇室がお互いの宗教より政略を目的とした結婚を重視してきた結果です。父王が即位する時にもカトリック教徒であることが問題になりましたが、イギリス国王に即位しました。
この当時からのイギリスの習わしでは、ヘンリ-8世がカトリック教会から分離し自らがイギリス国教会の首長になって以来、代々イギリス国王がイギリス国教会首長を務めています。
父王の追放と名誉革命、新国王の即位と歴史
その後カトリック擁護の言動が多く、イギリス議会をないがしろにすることに至り、イギリス議会はメアリー2世の父であるジェームズ2世をカトリックを国教としているフランスへ追放します。
そして、次期国王としてプロテスタントの教育を受けて育てられた娘のメアリー2世と、その夫のオランダ総督ウィリアム3世を王として迎えました。イギリス皇室において初めての2人統治王の時代の始まりです。
イギリス議会は王の権限を大きく制限し、政治の主権は議会へゆだねるという「権利の章典」を2人の王に提出します。ウィリアム3世とメアリー2世はこれを承認し発布。イギリスは政治の主導権を議会が決めるという立憲政治がはじまりました。
大きな戦乱もなく無血で国王交代を成し遂げ、「政治の主権を王から人民と議会へ」という動きが「名誉革命」です。
混乱するイギリスを治めたウィリアム3世
1689年にイギリス国王となったウィリアム3世とメアリー2世ですが、その治世は波乱に富んだものでした。当時のヨーロッパは、イギリスのみならずプロテスタントとカトリックの抗争が激しかった時代です。プロテスタントが主流となりつつあったイギリス国内でも、カトリックの勢力はまだまだ大きいものでした。
また、イギリスに併合されていたスコットランドでは、カトリックの王であったジェームズ2世への思いが強く、「ジャコバイト」と呼ばれるジェームズ2世派で反ウィリアム3世派の動きも活発でした。ウィリアム3世はこうした反抗勢力も、武力によって鎮圧します。
さらに、カトリックの国であるフランスは、当然のことながらルイ14世が亡き父王ジェームズ2世派に支援を送ります。その後に続く、イギリスとフランスという欧州の二大強国の勢力図は、ウィリアム3世によって作られたと言えるでしょう。
この名誉革命と権利の章典発布を記念して発行されたのが、今回ご紹介する「ウィリアム3世とメアリー2世5ギニー金貨」です。
メアリー2世の急逝とウィリアム3世の死
1694年、メアリー2世は32歳の若さで天然痘により死去しました。メアリー2世は自分の死後も、ウィリアム3世が単独で王位を保持できるよう遺言を残したとも伝えられています。
1694年から単独の王となったウィリアム3世は、その後もヨーロッパの政治の舞台において大きな存在であり続けました。軍人として優れていたにもかかわらず、ウィリアム3世は乗馬中にモグラの穴に馬の脚を取られて落馬。その怪我が原因で1702年に51歳で亡くなっています。
ウィリアム3世に対抗していたジャコバイトたちは、「モグラ塚の黒いヴェルヴェットの小紳士(モグラの比喩)に乾杯!」とうっ憤を晴らしたのだとか。
オランダ総督でありながら、妻の英国王即位によって共同君臨するという特異な変遷をたどったウィリアム3世。彼の即位によって、プロテスタントとカトリックが拮抗していたヨーロッパの勢力図も大きく変わることになりました。政治的な手段には恵まれた君主であり、戦場においても優れた指揮官としての資質を示しています。
フランスと勢力を二分するイギリスという構図を作り上げたのもウィリアム3世です。
現在の知名度ではそれほど大きな扱いではないウィリアム3世ですが、イギリスがヨーロッパの強国へと駒を進める推進力を強めた存在として、歴史上重要な人物です。
ウィリアム3世&メアリー2世の5ギニー金貨のデザイン
1689年にイギリス国王として即位し、今のイギリスの政治体制の原点を作ったウィリアム3世とメアリー2世は、当時製造されたコインにも2人で肩を並べる姿で刻まれています。裏面には、英国王室の紋章とともにウィリアム3世の出身を示すオラニエ=ナッソウ家のシンボルが見えます。
妻のメアリー2世は、即位後わずか5年でなくなってしまったため、夫婦が並んだコインはコレクターたちのあいだでも大変な人気があります。
表にはウィリアム3世とメアリー2世の右向きの肖像と〈GVLIELMVS・ET・MARIA・DEI・GRATIA(神の庇護を受けしウィリアムとメアリー)〉の刻印が施されています。
人物が2人が描かれたコインも珍しく、名誉革命を経て国王になった二人の歴史が刻まれています。
コインの裏面には左上に4つの王の紋章・百合はフランス、ハープはアイルランドを表す象徴であり、ウィリアム三世出身のオラニエ・ナッソウのライオンの紋章も描かれています。
ウィリアム3世&メアリー2世の5ギニー金貨の価格推移
ウィリアム3世&メアリー2世5ギニー金貨は1691年から1964年にかけて発行されています。300年前のアンティークコインの価格はどのような推移でしょうか。
UNC Details (Cleaned)
2022年8月25日に$21,600で落札。
発行枚数が不明なため、「クリーン」の評価がついていますが価格に影響はありません。
AU58
May 5, 2022年5月5日に$72,000で落札。
MS64 Proof Like
2021年3月26日に$336,000で落札。
パラマウントコレクションより。
MS61 "Elephant & Castle"
2021年1月21日に$105,000で落札。
「エレファント&キャッスル("Elephant & Castle")」と呼ばれる5ギニー金貨もあります。
ウィリアム3世ポートレート下に小さなエレファント(象)の刻印があります。
▲肖像のすぐ下に小さな「象」が刻印されている
もともとギニー金貨の「ギニー」という単位は、金を産出しているアフリカのギニアを表す言葉です。その中でもこの「エレファント&キャッスル」というマークがついているものは、ギニア産出の金で作られたものです。
ギニー金貨の中でも、この「エレファント&キャッスル」が付いているものが高く評価されています。
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