1701年ウィリアム3世5ギニー金貨の特徴を解説!発行枚数やデザインの意味とは

今から300年以上前に発行された「1701年ウィリアム3世5ギニー金貨」。ある物理学者の指揮下で制作されたこのコイン、表面に彫られたウィリアム3世の長い巻き毛がいかにも時代を感じさせます。オランダ人であるウィリアム3世がなぜイギリスのコインに彫り込まれているのか、そして裏面にはなぜフランスの紋章があるのか、その謎に迫ります。

 

1701年ウィリアム3世5ギニー金貨とは

1701年に発行されたウィリアム3世の5ギニー金貨は、アフリカ西海岸のギニアで産出された金を使って鋳造したものです。5ギニーの「ギニー(guinea)」とは、ギニアからとった貨幣の単位で21シリングと同等の価値があります。

 

1701年ウィリアム3世5ギニー金貨の特徴

▲裏面の紋章が印象的なウィリアム3世の5ギニー金貨

1701年ウィリアム3世5ギニー金貨は、重量が41~42gで、正確な大きさ(直径)は不明です。

発行当時に直径が発表されなかったのか、または、どこかで失われてしまったのか定かではありませんが、いずれにしても年月がたっているため、その経過がわからず、今でも正式な直径は発表されていません。

発行枚数についても資料が残っていないため不明です。ただ、鑑定枚数が58と少ないため希少性が高く、近年ではほとんどが100万円以上の価格で落札されています。

表面にはウィリアム3世の横顔が彫刻され、裏面にはイングランド、スコットランド、アイルランド、フランスの4つの紋章の上に王冠が載り、それらの紋章を十字型に配置したものがデザインされています。

表面のウィリアム3世の彫刻、特に長い巻き毛の表現がみごとですが、裏面の紋章の彫りの深さや精巧さも大きな魅力になっています。

 

金貨の裏面に彫られた紋章 

▲裏面のデザイン:イングランド、スコットランド、アイルランド、フランスの紋章と王冠

1701年ウィリアム3世5ギニー金貨の裏面にはイングランド、スコットランド、アイルランドそしてフランスの紋章が彫られています。

フランスの紋章が彫られている理由についてはすでに触れていますが、金貨発行当時、それぞれ一つの国として存在していたスコットランドとアイルランドの紋章が含まれているのはなぜなのでしょうか。

戦国時代ともいえるこの時期、イギリスでは覇権争いが激しさを増していました。スコットランドは経済的な理由から1707年にイングランドに正式に併合されますが、アイルランドに関しては、イングランドに侵略されたわけで現在でもイングランドとはあまり良い関係が築かれているとは言えません。

このことから、ウィリアム3世は「1701年ウィリアム3世5ギニー金貨」にそれぞれの紋章を入れることで、イングランドの覇権を誇示しようとしたのではないかと考えられます。

 

金貨製造の指揮をした物理学者とは

▲アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton、1642年12月25日 - 1727年3月20日)

この金貨の製造に関して一つ興味深い話があります。それは、「万有引力の法則」などで有名な物理学者アイザック・ニュートンが1696年にイギリスの造幣局長官に就任し、「1701年ウィリアム3世5ギニー金貨」の制作を指揮していたことです。

この頃ニュートンはすでに54歳で、研究の仕事から離れていました。造幣局長官になったニュートンは、それまでの古い造幣方法を改め、科学的な手法を使って、ジェームス・ブルやジョン・クロッカーなど新鋭のデザイナーを起用しコインの制作・製造を指揮したと言われています。また、当時大量に出回っていた偽コインに対処するため、コインのエッジに独特の溝を刻む方法を考え出すなど、イギリスの通貨を改正しました。

 

ウィリアム3世はどんな王だったのか

これまではコインの特徴や製造にまつわる話をお伝えしましたが、表面に彫られたウィリアム3世とはどんな王だったのでしょうか。

 

ウィリアム3世の結婚

ウィリアム3世は1650年にオランダで生まれ、イギリスの王になる前はオランダの総督を務めていました。オランダもイギリスもそれぞれ一つの国でしたが、当時のヨーロッパでは、各国の王室の間で婚姻関係を結ぶことが風習になっていたようです。

この頃ヨーロッパではフランスのルイ14世が大きな力を持ち、周辺諸国を圧倒しフランスはこうした国々を衛星国のように扱っていました。この状況に不満を抱いたウィリアム3世はオランダ国内の統制を別の人物に任せ、自身は、フランスに対抗するためにイギリスと結託することにしたのです。

そのために、1677年いとこに当たるイギリスのメアリーと結婚しました。まさに政略結婚でした。ウィリアム3世は1689年イギリスに到着し、英国の反対派を追放します。その反対派の一人はメアリーの父である当時の王ジェームズ2世でした。この出来事は、一人も死なずに追放に成功したことから、「名誉革命」と呼ばれています。

 

ウィリアム3世とメアリー2世

名誉革命後、妻のメアリーが「メアリー2世」として即位するのですが、ウィリアム3世はこれを不服とし、自身の王位も要求します。結果としてこの時期イギリスは2人の王が君臨する二頭体制がとられることになるのです。当然、イギリス史上初めての出来事です。

イギリスには「ウィリアムとメアリー」というフレーズがありますが、これはウィリアム3世とメアリー2世のことを意味し、この時期2人によって造り出された家具のデザイン様式の名称になっており、またいくつかの学校の名前にも使われています。

 

1700年の「ロンドン条約」を記念する金貨?

このような状況の中で妻とともに王位についたウィリアム3世でしたが、1694年にメアリー2世が亡くなったため、その後ウィリアム3世は単独の王として君臨することになります。

その一方で、フランスとの小競り合いはずっと続いていました。この争いはスペイン、イタリアなどを巻き込みヨーロッパ全体を不安定な状態に陥れていました。特にスペインの王位継承が大きな問題となり、それを解決するために、1700年にウィリアム3世はフランスのルイ14世と「ロンドン条約」を結び、フランスとの和平が確立します。

「1701年ウィリアム3世5ギニー金貨」はこの条約締結の翌年に発行され、裏面にフランスの紋章が入っていることから、「ロンドン条約」の締結を記念して発行されたのではないかと考えられます。(残念なことに、どの資料を見ても、この金貨の発行された理由の説明がないため、あくまでも推測になります。)

 

ウィリアム3世王位継承の後日談

さて、フランスとも和平を結びすべてがうまく行ったかのように見えたウィリアム3世の王位でしたが、これには後日談があります。

金貨が発行された翌年1702年、ウィリアム3世の乗っていた馬がモグラの穴につまづいて転び、王は落馬して様態が悪くなり結局肺炎を患い亡くなってしまったのです。もともとオランダ出身でイギリスを統治したウィリアム3世でしたが、それだけにイギリス人からはよく見られていなかったようです。

妻のメアリー2世の父である前王ジェームズ2世を支持する「ジャコバイト」と呼ばれる人々がウィリアム3世の死を喜び「黒のチョッキを着た小紳士」とバカにして酒の杯をあげたという逸話が残っています。ちなみにウィリアム3世の死後、この王には子供がいなかったため、妻メアリーの妹であるアンが王位を継いでいます。

 

まとめ

イギリスの有名な物理学者アイザック・ニュートンの指揮の下作られた「1701年ウィリアム3世5ギニー金貨」。このコインにはたくさんの物語が込められていましたね。

オランダ人でありながらイギリス人のメアリーと結婚し、妻と共にイギリスの王に君臨したウィリアム3世。そしてフランスとの間に築いた和平、それに続く突然の死。「1701年ウィリアム3世5ギニー金貨」から、300年以上前のイギリス、そしてヨーロッパの状況が伝わってきます。