【日本初の近代紙幣】ドイツ生まれの「明治通宝」——わずか10年足らずで消えた歴史と魅力を徹底解説
日本の紙幣の歴史を語る上で欠かせないのが、明治時代初期に登場した「明治通宝(めいじつうほう)」。日本初の全国統一紙幣です。
鳳凰や龍が描かれた荘厳なデザイン、そして「ゲルマン札」という異名を持つこの紙幣は、単なる通貨以上のお話があります。
今回は、日本初の近代紙幣である明治通宝の誕生からわずか10年ほどで迎えた終焉、そして現在の価値について詳しく解説します。
明治通宝

基本データ
| コイン名 | 明治通宝 |
|---|---|
| 通称 | |
| 発行年 | 1872年(明治5年) |
| 国 | 日本国 |
| 額面 | 百圓、五十圓、十圓、五圓、弐圓、一圓、半圓 (50銭)、弐十銭、十銭 |
| 種類 | 紙幣 |
| 素材 | 洋紙から局紙へ変更 |
| 発行枚数 | 総発行枚数259,004,869枚 |
| 品位 | - |
| 直径 | 下部に記載 |
| 重さ | - |
| 統治者 | 明治天皇 |
| デザイナー | - |
| カタログ番号 | JNDA #04-01〜04-09 |
| 表面のデザイン | 菊紋(十六八重表菊)と 向かって右側に「鳳凰(ほうおう)」、左側に「龍(りゅう)」、 五七の桐、「明治通宝」の文字 |
| 表面の刻印 | - |
| 裏面のデザイン | 額面、四隅に「唐草文様(アラベスク)」、朱色右側に「大蔵卿印」、左側に「記録頭印」の公印 |
| 裏面の刻印 | - |
| エッジのタイプ | - |
| エッジの刻印 | - |
明治通宝とは? ——なぜ「ドイツ製」だったのか
明治新政府が成立した当初、日本国内には江戸時代の藩札や、政府が発行した太政官札などが混在しました。
この状況を打破し、近代的な共通通貨「円」を定着させるために導入されたのが明治通宝です。
偽造も多発するなど混乱を極めてたため、近代化をはかる日本には新しい紙幣が必要でした。

「ゲルマン紙幣」と呼ばれる理由とは
当初、新政府はイギリスへの発注を検討していましたが、最終的にドイツ(当時は北ドイツ連邦)のフランクルトにあった民間工場である「ドンドルフ・ナウマン社(Dondorf & Naumann)」に製造を依頼しました。そのため「ゲルマン紙幣」と呼ばれています。
ナウマン社はのちにトランプカードの印刷も行っており、当時の高い技術で印刷されたトランプは現在でも収集家に人気があります。

▲ナウマン社のトランプ
「ドイツへの発注」に至った3つの理由
ではなぜ、日本は自国ではなくドイツへ製造を依頼したのでしょうか。
1つ目の理由は偽造防止に強い「エルヘート凸版」という最新技術の提案があったことです。
当時の日本国内では偽札が大きな問題になっていました。ドイツの会社が提案してきたこの最新の偽造防止技術によって強力な偽造防止効果が期待できたのが、政府にとって最大の魅力でした。

▲若き日のキヨッソーネ。19世紀後半には、名刺の代わりに写真を交換するのが慣習でした。表面には若き日のキヨッソーネの写真。裏面には彼の直筆の署名とイタリア王国国立銀行総裁であり、イタリア銀行の初代総裁であったジャコモ・グリッロへの献辞が添えられています。
そして2つめは、日本への技術指導という条件でした。イギリスなど他国の印刷会社は「注文があれば製造する」というビジネスライクな姿勢でしたが、ドイツの会社は「日本に印刷機をを販売し、技術者も派遣して技術も渡す」という条件を出してきました。 自国での紙幣製造を目指す日本にとって、この「技術移転」の約束は決定打となりました。
ただ、「技術移転」といっても、実際には肝心な紙幣の原版の作成方法はなかなか教えてもらえず、後年になって「日本における西洋印刷技術の父」と呼ばれるようになったイタリア人のキヨッソーネなどを招き、日本はようやく本格的な国産化に成功することになります。

▲ナウマン社の広告|有価証券の印刷、最高の偽造対策を提供することなどが書いてある
ナウマン社は1873年(明治6年)10月9日、日本政府の在欧担当者に「明治通宝の製造のための設備投資により経営難に陥り、そのため設備を売却したい」と申し出てきました。
ナウマン社はオリエンタル・バンク(東洋銀行)と取引していましたが、このときロンドン本店から横浜支店に紙幣の製造費用等の支払請求書が送付されました。

▲1874年5月15日、大蔵省大蔵次官兼大蔵局長吉田清成が内閣総理大臣三条実美に報告したドンドルフ・ウント・ナウマン社からの機械受入に関する公文書。10 ページにわたるこの報告書には、各額面のオリジナル版、エアーヘートのオリジナル活版版・クリシェ・ナンバリング、そして各額面の校正刷りについて記載されている。
横浜支店は大久保利通卿と吉田清成少補の書簡を添えたうえで、大蔵省へ連絡します。
1874年(明治7年)にはナウマン社にあった明治通宝の原図や原版が日本に引き渡されました。
そして技術指導の技術者の派遣も決定し、紙幣製造の完全国産化へ移行しました。また、北海道開拓使だったアメリカ人のトーマス・アンチセルが紙幣寮に移り、紙幣用インキの研究や製造に従事します。そのほか印刷工としてカール・アントン・ブルック、そして活版印刷工としてブルーノ・リーバースも製造にあたりました。

▲ナウマン社からの機械の購入金額が記されている
そして1875年(明治8年)からは、来日した元ドンドルフ・ナウマン社のエドアルド・キヨッソーネも紙幣寮の技術指導に当たりました。
キヨッソーネはこの後、切手や紙幣などのデザインを多数手がけることになります。
1875年から1878年の間は、母の死去に伴うイタリアへの帰国さえ叶わなかったほど、多忙を極めたと言われています。
3つ目はビスマルクとの外交的なつながりです。ちょうどこの頃、岩倉使節団が欧米を視察しており、ドイツ(当時のプロイセン)の宰相ビスマルクとも会談しています。 新興国として急成長していたドイツの勢いや、その国家体制に学ぼうとしていた日本の政治的背景も、ドイツを選んだひとつです。
その結果、当時普仏戦争が開戦していたドイツに対して大蔵卿大木喬任は10月、ドンドルフ・ナウマン社に9券種・額面5000万円分(後に5353万円分を追加発注)を発注しました。
明治通宝の種類とデザイン
明治通宝は、百圓、五十圓、十圓、五圓、弐圓、一圓、半圓 (50銭)、弐十銭、十銭の9種類の額面が発行されました。
大きさなどはそれぞれ以下の通りです。

表面には菊の御紋章、二羽の鳳凰(ほうおう)、双竜(そうりゅう)。
裏面には孔雀(くじゃく)、千鳥、トンボ、ホタテ貝、青海波(せいがいは)などの模様が描かれています。
安全対策のため、ドイツにて模様と記番号が印刷された半製品の状態で日本へ輸入され、その後日本国内で「明治通宝」の題号の加刷と印章類の押印を行って完成させます。
初めは「明治通宝」の文字を100人がかりで手書きで記入していました。
しかし約1億円分、計2億枚近くもあることから「記入に時間がかかりすぎる」として、木版印刷に変更されました。すでに記入していた52,000枚は廃棄処分されました。
最初の用紙は麻と亜麻を原料としていましたが、途中から「三椏(みつまた)」を混ぜた、丈夫なものへ換えられました。
日本の識字率との関係
明治通宝の表面には鳳凰と龍が描かれ、縦書きで「明治通宝」の文字。裏面は青海波、蜻蛉(とんぼ)、千鳥など、日本らしい伝統的な図柄です。
幕末〜明治期の日本の識字率についてイギリスの社会学者リチャード・P・ドーアR.P.ドーア著『江戸時代の教育』(1965年)によると、「日本の男子の40〜50%、女子の15%。寺子屋などで教育を受けていたため」と書かれています。
日本の当時の世界からみてもかなりの高い水準でしたが、「識字率が高い=難しい漢字も読める」ということではありませんでした。
そのため、明治政府は誰が見てもすぐに額面が分かるように、「100円は紫」「10円は緑」「1円は赤」としたと言われています。

純国内製造への転換
明治通宝が印刷された最初の素材は「洋紙」と呼ばれるドイツ製の紙でした。
日本政府は偽造防止のために当時の最先端技術を持っていたドイツのドンドルフ・ナウマン社に、製造の全てを依頼しました。しかし、ドイツ製の洋紙は日本の高温多湿な気候に合わず、すぐにボロボロになってしまうということがあった上に偽造も相次ぎました。
そこで明治10年(1877年)7月から、日本の「紙幣寮(のちの国立印刷局)」で、ついに国内製造が開始しました。
この国内製造のタイミングに合わせて、日本の伝統的な和紙の原料である「三椏(みつまた)」を混ぜた、丈夫な和洋折衷の紙が使われるようになりました。
この時に開発された三椏入りの紙は、のちに「局紙(きょくし)」と呼ばれ、その圧倒的な品質の高さからパリ万博などで世界的な大絶賛を浴びることになります。
その後のナウマン社
1871年のドイツ帝国成立後、民間紙幣発行銀行の重要性は低下してしまいます。そのためドンドルフ・アンド・ナウマンの有価証券の受注量も減少しました。
そしてナウマン社は、1932年の世界恐慌中に倒産してしまいました。
明治最大の『藤田組ニセ札事件』とは

日本を代表する推理作家、松本清張も『相模国愛甲郡中津村』と『不運な名前』で取り上げた明治の大事件に明治通宝が関わっています。
明治11年(1878年)12月ごろに発覚した「藤田組ニセ札事件(ふじたぐみがんさつじけん)」が日本中をパニックに陥れた大事件となりました。
当時、流通していた「明治通宝」2円札の中に、本物と見分けがつかないほど精巧なニセ札が大量に紛れ込んでいることが発覚しました。
それは大阪・京都・兵庫・岡山・広島・山口・熊本・鹿児島各地で収められた税金の中から見つかりました。
図案の中のトンボのあしが1本足りなかったそうですが、それも400倍の顕微鏡にかけてようやくわかるという、それまでのニセ札よりもはるかにクオリティがあまりにも高すぎたため、「これはただの犯罪組織の仕業ではなく国家規模の設備と技術を持った人間の犯行だ」と大騒ぎになります。
政商「藤田組」の存在
警察が捜査を進める中で、ある一つの企業に疑惑の目が向けられました。
それが、関西を拠点とする政府と深く結びついた大商人である藤田組のトップである藤田伝三郎(ふじた でんざぶろう) が取り仕切る、「政商」の「藤田組(現在のDOWAホールディングスなどの源流)」です。
藤田伝三郎は山口県萩市の酒造家の父の元、1841年に四男として生まれました。
幕末期には萩藩の尊王攘夷運動に加わり国事に奔走し、奇兵隊に参加しました。
明治維新後大阪に移り、明治2(1869)年軍靴製造を始め、陸軍用達業者となりました。西南戦争で利益を得て、明治14年に「藤田組」を創設。
明治17年に官営小坂鉱山の払下げを受けてから事業を拡張し、鉱山業を中心に諸事業を展開します。土木事業で佐世保や呉の軍港、琵琶湖疎水の工事を行い、公共的な事業にも取り組みました。
鉱山事業や干拓事業にも力を注ぎ、大阪紡績、阪堺鉄道等の創設にも参加します。大阪商法会議所頭になるなど、関西財界の巨頭と呼ばれました。明治44年には男爵の爵位を受けています。
藤田組が偽札の製造を疑われた理由は3つありました。
まず一つ目は「長州閥との太いパイプ」です。当時の実力者であった井上馨(いのうえ かおる)など長州出身の政府高官と非常に親密でした。

▲出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
そして二つ目の疑惑は、「ドイツ製の印刷機を所有していた」ことです。 藤田組は、明治通宝を印刷したのと同じドイツのドンドルフ・ナウマン社製の最新鋭印刷機を、なぜか個人的に購入して所有していたのです。所有の表向きの理由は「新聞や切手を印刷するため」としていました。
そして三つ目の理由は、資金の出どころが不透明というポイント。 藤田組は1877年の西南戦争で軍需物資を調達し、莫大な利益を上げていました。しかしその資金の出どころや急激な成長に「何か裏があるのでは?」と疑う声がありました。
その結果、「政府の内部情報を知る長州閥と結託し、ドイツ製の同じ印刷機を使って、ニセ札を大量に刷ってボロ儲けしている」という噂が、まことしやかに囁かれたのです。
事件の結末
明治12年(1879年)、ついに警察が動きます。藤田組の犯行を証言する密告者木村真三郎が現れたためです。「藤田組が長州閥の重要人物井上馨と共謀して、海外に滞在している井上馨に偽札を印刷させ、それを日本に持ち込んで事業資金にしようとした」と証言しました。
同年9月15日の未明に藤田伝三郎をはじめ、藤田組の幹部が一斉に逮捕・投獄されました。世間は大騒ぎになります。
しかし、厳しい取り調べが行われましたが、彼らがニセ札を製造したという「決定的な証拠(ニセ札の原版や印刷された紙など)」が、藤田組のどこからも一切出てきませんでした。
結局、証拠不十分で同年12月20日に藤田伝三郎たちは全員が無罪放免の釈放となりました。
密告者とされている木村真三郎は、偽証罪を問われて懲役70日となりました。
明治13年1月には東京日々新聞に藤田組惣代久原庄三郎の名で「藤田組無罪御礼広告」が掲載されました。
残された謎と真犯人
藤田組が無罪となりましたが、あの超精巧なニセ札を作った真犯人は一体誰だったのでしょうか?
1880(明治13年)3月に神奈川県愛甲郡中津村の医師兼画工、熊坂長庵(当時38歳)という男の名前が浮上します。
自宅からは偽造用の印刷器具十数点と偽造紙幣815枚が見つかったことから、藤田組贋札事件の犯人として逮捕され、無期懲役で新設されたばかりの北海道の樺戸集治監に収監されました。
1886年4月29日に樺戸集治監にて獄死。数え年で43歳でした。
今でも熊坂長庵の冤罪を考察する論文が発表されています。
熊坂長庵の存在の他、現在に至るまで、以下のようないくつかの説が囁かれています。
証拠隠滅が完璧だっただけで、実はやっぱり藤田組が黒幕だったのではないかという説。
そして、財政難に苦しむ明治政府(長州閥)が、秘密裏にニセ札を刷って資金を調達し、トカゲのしっぽ切りとして藤田組に罪をなすりつけようとした井上馨(長州閥)の陰謀説。
西南戦争で敗れた西郷隆盛側の残党が、政府の経済を混乱させるためにドイツ製の機械を密輸してニセ札をばら撒いたという元薩摩藩士の反乱軍説。これは実際に別のニセ札事件で元薩摩藩士が捕まった事例もあったことからこの憶測が飛び交っています。
そして、そもそも明治通宝の原版を作ったドイツの会社またはその関係者が、原版を悪用してニセ札を作り、日本に持ち込んだという「ドイツの印刷会社犯行説」があります。
明治通宝の終焉
結局、『藤田組ニセ札事件』は迷宮入りとなりましたが、この事件の影響で「明治通宝は信用できない」という声が国民の間に広まってしまいました。
これが決定打となり、明治政府は偽造が極めて困難な、より高度な技術を用いた新しい紙幣「改造紙幣」への切り替えを急ぐことになりました。
今も昔も、新紙幣への切り替えには「偽造問題」が絡んでいることがわかります。
日本銀行の設立により1885年(明治18年)から日本銀行券(日本銀行兌換銀券)が発行開始されました。
その後、西南戦争等を発端としたインフレーションの沈静化を目的とした紙幣整理の政策の一環として1898年(明治31年)6月11日に公布された「政府発行紙幣通用廃止に関する法律」等に基づき、1899年(明治32年)12月31日をもって政府紙幣である明治通宝および改造紙幣の法的通用が禁止され廃止となりました。
同年12月9日には国立銀行紙幣も通用停止となり、日本国内で流通する紙幣は『日本銀行券』へ一元化されました。

用紙の質に欠陥があったことに加え、低い額面のため流通が激しく特に損傷が多くみられたことから、十銭券のみ一足早く1887年(明治20年)6月30日をもって法的通用が禁止され、廃止されています。
現在の市場価値
ほとんど現存が見つからないものから、比較的手に入りやすいものの現在の未使用グレードの市場価値をご紹介します。PMGでの鑑定枚数も少ないため、未鑑定のものを目安にしています。
百圓・五十圓:1,000万円以上
十圓・五圓:未使用は50万円〜
弐圓:〜15万円
一圓:〜5万円
半圓 (50銭):〜3万円
弐十銭十銭:〜2万円
まとめ
ドイツで生まれ、日本の近代化の転換期となった縦型が珍しい「明治通宝」。 その美しいデザインは、後の軍票や海外の銀行券のデザインにも大きな影響を与えました。
その後の日本の紙幣に欠かせない人物となったキヨッソーネ来日のきっかけにもなりました。
1872年(明治5年)に華々しくデビューした明治通宝ですが、わずか10年足らずで「改造紙幣」へと交代することになります。
明治通宝を手に取り、明治維新の熱気と試行錯誤の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

湿気などに弱い「洋紙」で製造されているため、劣化するまえに未鑑定の明治通宝をお持ちの方は、ぜひアンティークコインギャラリアへPCGS社でのPMGへの鑑定代行をご相談ください!
明治通宝にご興味はありませんか?
- 現在、明治通宝をお探しの方
- 明治通宝を保有していて売却を検討している方
- 何かアンティークコインを購入してみたいけれど、どれを買えばいいのかわからない方
今すぐギャラリアの専任スタッフにご連絡ください。無料でアンティークコインやマーケットの情報、購入・売却方法など、ご相談を承ります。
出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/明治通宝
https://www.meihaku.jp/currency-basic/late-modern-money/
https://shop.ginzacoins.co.jp/goods/paper/419/600390
