集めたコインは8,000枚以上!歴史上最も著名なコインコレクターでありエジプト最後の王”ファルーク”ご成婚記念500ピアストル金貨
今もなおコインの世界でも名前を残す最後のエジプト王「ファルーク」。
近代エジプトコインの中でも代表的なご成婚記念の大型金貨500ピアストルと当時のエジプトの歴史、ファルークの生涯を解説します。
エジプト ファルーク 御成婚記念 500ピアストル金貨
基本データ
コイン名 | 1938年 エジプト ファルーク ご成婚(ロイヤルウエディング)記念 500ピアストル金貨 |
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通称 | ファルーク ご成婚500ピアストル金貨 |
発行年 | イスラム歴1357年(西暦1938年) |
国 | エジプト |
額面 | 500 ピアストル|5 エジプトポンド |
種類 | 金貨 |
素材 | 金 |
発行枚数 | 通常貨:1,000枚|プルーフ:不明 |
品位 | Au875 |
直径 | 37ミリメートル |
重さ | 42.5グラム |
統治者 | ファルーク1世 |
デザイナー | パーシー・メットカルフ |
カタログ番号 | KM# 373、Fr# 35 |
表面のデザイン | 左向きのファルーク国王 |
表面の刻印 | ファルーク1世 エジプト王国 |
また | アラビア語の刻印 |
裏面の刻印 | 5 エジプト王国 1938 - 1357 |
エッジのタイプ | ミルド |
エッジの刻印 | - |
1938年1月20日木曜日、場所はエジプト・カイロのアブディーン宮殿。
のちに伝説のコインコレクターとなる17歳の「ある王様」がダイヤモンドの孔雀のティアラをつけた王妃となる女性と結婚式を挙げました。
この日のエジプトは祝日になり、国全体が大きな喜びに包まれて、公式行事は三日三晩続きました。
その王様はエジプト最後の王となる17歳のファルーク。王妃となる人物は16歳のサフィナズ・ズルフィカル。のちのファリダ王妃です。
外国の王族や世界の指導者を含む4,000人の招待客を迎え、巨大なウェディングケーキや高価な宝石が並ぶ3日間にわたる豪華な式典でした。
結婚式の当日には大切な人に水や食料を与えるよう、ファルークが指示したそうです。
新郎のファルークから新しい王妃へのプレゼントとして、結婚式の前にパリのブシュロンで280万フランで購入した豪華なネックレスが贈られました。
これは1937年のパリで行われた万国博覧会のために114個・346カラットのダイヤモンドで作られた作品でした。
諸外国からもお祝いが贈られました。
中でも有名なのは、当時のナチスドイツを率いていた総統ヒトラーが贈呈された1台の高級車です。1936年に生産が開始された唯一の新型スーパージャーチャー付きのメルセデス・ベンツ・カブリオレCでした。 エジプトでは国王のみが使用を許された、赤色に塗られた特別仕様でした。
▲ヒトラーから贈られたダークレッドの特別仕様のベンツ
その他 オーストリアからは、18世紀の騎士団の親族が描いた彫刻のコレクション。 イタリア国王からは17世紀のイタリアの王子のブロンズ像。 当時のイギリスの国王ジョージ5世からは美しい狩猟用のライフル2丁。 ギリシア国王からは、アテネの博物館に保存されているプトレマイオス朝の王妃のブロンズ像のレプリカ。 ヨルダンとサウジアラビアの国王からはアラブ馬が贈られました。
ご成婚記念500ピアストル金貨とは
ファルーク国王の結婚に伴い、ご成婚記念のコインとしてロンドンで 5ポンド(500ピアストル)金貨が製造されました。
表には、左向きのファルーク国王の若き肖像と 「ファルーク1世」とアラビア語でデザインされています。
このデザインは歴代のエジプト国王から受け継がれる伝統的なコインのデザインです。
エングレーバーはイギリスのロイヤルミントのパーシー・メットカルフです。 彼は南ローデシアやカナダ、モーリシャスなど当時のイギリス領の流通貨幣などをデザインしています。
裏側にはエジプト王国・5ポンド金貨・1938年とアラビア歴の1357年の文字が美しいアラビア語でデザインされています。
この金貨の実際の製造は1939年でしたが、結婚の年である1938年の刻印になっています。
ファルーク国王の華麗なる人生
1920年2月11日(ヒジュラ暦1338年)にエジプト・カイロのアブディーン宮殿でムハンマド・アリー王朝の10代目のエジプトの統治者であり、エジプトとスーダンの最後から2番目の国王であるフアード1世の長男として生まれました。
アルバニア・チェルケス・トルコ・フランス・ギリシャ・エジプトの血を引いています。
正式な称号は「神の恩寵によりエジプト及びスーダン国王ファルーク1世陛下」です。
父王フアード1世は、インド人の占い師から「Fで始まる名前は幸運をもたらす」と言われ、子供たち全員に「F」で始まる名前を付けました。
▲フィリップ・デ・ラースローが描いた少年のファルーク
ファルークは王宮からほとんど出さずに育てられ、主な遊び相手は妹たちでした。
14歳でイギリスのウーリッジ陸軍士官学校に留学しますが、全く勉強もせず、大学の入学試験もパスできませんでした。
ロンドンの街に行っては買い物をし、最近のイギリス国王であるチャールズが皇太子だった頃はよく一緒にサッカーを観戦していたそうです。ファルークの側近は「エジプトには真実は存在しない。約束を破るのは普通のこと。ファルークはこの面では完璧で、嘘をつくことが大好きだ。」と語ります。
「最愛の王」と呼ばれる若き17歳の王の誕生
1936年4月28日、ファード国王が心臓発作で崩御したため、留学先のイギリスから緊急帰国。父の後に続いて王位に就きました。
エジプトに帰ったファルークは国民から「最愛の王(アル・マリク・アル・マハブブ)」と呼ばれ、「ナイル王万歳」「エジプトとスーダンの王万歳」と迎え入れられましました。
1937年7月29日に行われた国王の就任演説で「私は自己の責務のために、あらゆる犠牲を覚悟だ。我が高潔なる国民よ、私はあなた方と、あなた方の姿勢を誇りに思う。私たちは栄え、幸福になることだろう」と宣言しました。
▲TIME誌の表紙になった戴冠してもないファルーク国王
しかし、それまで王宮と決められた生活圏という非常に閉鎖的な世界で育ったため、アブディーン宮殿とギザの大ピラミッドはわずか19kmしか離れていないにも関わらず、王位に就くまで一度も訪れたことがなかったといいます。
ファルークの伝記を書いた作家は、新しい王の任命に際し「これほど独立の準備ができていなかった王はいない。完全に世的な俗環境で育ち、ほとんど教育を受けていない16歳の少年が、国家主義や帝国主義、立憲主義と君主制の間で長く行われている複雑な綱引きの中で、父親の足跡を継ぐことを国民から期待されている」と語っています。
この時、日本からは菊花大綬章が贈られています。
国王と平民との計画的な結婚

▲当時発売されたご成婚記念切手
1937年8月24日、アレクサンドリアの裁判官の娘であるサフィナズ・ズルフィカルとの婚約が発表されました。 貴族同士ではなく平民と結婚するということで、エジプト国民の間での人気が高まりました。
しかしこれは、計画された結婚でした。
ズルフィカルの父は「娘が15歳で結婚するには若すぎる」という理由で結婚を許可しませんでした。 そして娘たちを連れてベイルートで休暇を取ることにしました。
ファルークは結婚の申し込みに対して「ノー」という答えを受け入れませんでした。 その場でアレクサンドリアの警察署長に電話をかけ、ベイルート行きの船に乗っていたズルフィカルの父を無実の罪で逮捕します。そのまま連行し、宮殿で待ち受けていたファルークはズルフィカルの父を買収し、貴族階級の「パシャ」にすることで、結婚の許可を得ました。
そして、ズルフィカルの16歳の誕生日パーティーでアルファロメオに乗った未来の王妃にプロポーズしました。
”F”で始まる名前は幸運を信じていたため、彼女の名前をファリダと改名しました。
父親譲りの収集による国内最大を揺るがすほどの財散
ファルークは統治期間中に、1000着以上のオーダーメイドのビスポークスーツに加えて、博物館級の珍しい切手やコインを収集していました。

▲2018年3月23日、オークション会社クリスティーズ・ドバイで91万2500ドルで売却されたファルークが所有していた腕時計パテック・フィリップのリファレンスNo.1518
のちの「ファルークコレクション」と呼ばれる8,500ポイントにのぼるコインのコレクションは、おそらく世界最多のコイン収集数と言えるでしょう。
また、ヒトラーから結婚祝いとして贈られたメルセデス・ベンツをはじめとする車、ダイヤモンドやルビー、エメラルドなどの宝石、ヴァシュロン・コンスタンタンのグランド・コンプリケーションなどの希少な時計も集めていました。
彼は美しい品々の存在を認め、「王としての責務の重みに押し潰されそうなとき、コレクションの数々を鑑賞することで、精神的な疲れを癒やしていた」と話していました。
コレクションはその他にダイヤモンドやルビー・犬・切手・ファベルジェの卵・古代チベットコイン・中世の甲冑・アスピリン小瓶・カミソリの刃・ペーパークリップにまで及びました。 宮殿にはファルークが集めた高級な2千枚のシルクシャツや1万人のシルクネクタイ、そしてダイヤモンドがちりばめられた金の杖が50本、そしてアドルフ・ヒトラーのサイン入りの肖像画1枚を収集していました。
欲しいと思ったものは、何でも手に入れるのが習慣になっていました。 そしてついに、他国への公式訪問中に工芸品など色々なものをこっそり盗むようになってしまいます。ファルークの“戦利品”の中には、イラン国王の棺から持ち去られた儀式用の剣や、ウィンストン・チャーチルからくすねた懐中時計もありました。
国を追われるファルーク国王
ファルークとファリダ夫妻は3人の娘をもうけましたが、当時のエジプトの法律では娘は王位を継承できませんでした。跡継ぎの男の子がいなかったため1948年に離婚してしまいます。
その後、ファルーク国王の評判は落ちていきます。
地に落ちた国王
車の走行速度などの取り締まりの対象外であることが警察にわかるよう、ボディは国王のみ使用を許された赤で塗装されたロールス・ロイスやベントレーでエジプトの街を疾走していたそうです。
ギャンブルにものめりこみました。同じテーブルにいた銀行家は「ファルークは自分が勝つまで相手に勝負を続けさせた。勝負がつくまで4〜5日かかることもあった。そのテーブルから去りたければ、彼に負けなければならなかった」。と語っています。
さらに、第一次中東戦争においてエジプト軍はパレスチナの大部分がイスラエルの手に渡る事態を防げませんでした。この結果はファルーク国王をさらなる窮地に追い込みました。エジプト軍が時代遅れの古い兵器を装備することになったのは、国王の私利私欲によって政府の資金が不足していたのが原因だという非難の声も上がりました。

美食を好み、太った体型や立ち上がった特徴的なカイゼルヒゲは『名探偵ポワロ』のモデルとなったという説もあります。
さらに国内外にたくさんの愛人を抱え、惜しげもなく大金を費やしました。
1951年に宝石店で出会ったナリマン・サデックという18歳の女性と再婚します。2ヶ月に及ぶ独身最後のパーティーはエジプト国民の反感を買いました。
王の退位
1952年1月26日に「暗黒の土曜日」として知られるイギリス軍とエジプト警察の衝突は大きな暴動となって広がり、カイロの中心街の大部分が焼失してしまいます。
ファルークはアブディーン宮殿で新しい妻との間に生まれた待望の男児であるフアードの生誕を祝う昼食会を開催し、600人の客を招いていました。カイロの中心部から黒い煙が立ち上っているのを見て、初めて暴動に気づきます。エジプト軍に暴動の鎮圧を命じましたが、時すでに遅し。祖父が築き上げたファッショナブルで華やかなカイロの中心部は、その日のうちに破壊されてしまいました。
これにより、国民王政の正統性に対して不満が生じます。
1952年7月26日の朝、クーデターが起こります。反王制の自由将校団のトップであるアリ・マヘルは宮殿に到着し、最後通告をファルークに手渡しました。その内容は、<翌日の午後6時までに退位してエジプトを離れなければならない、さもなければ自由将校団に忠誠を誓う軍隊が宮殿を襲撃し国王を処刑する>と書かれていました。
この時すでに、戦車と大砲が宮殿の外に到着していました。ファルークはすぐに退位に同意し、午後12時30分頃、ファルークは最高裁判所判事たちの前で退位文書に署名しました。この時、泣きそうになっていたと記録が残っています。
午後5時30分頃にファルークは宮殿を出ます。スーダンの衛兵に敬礼され、エジプトを出国することを許されなかった親友のプリに別れを告げました。波止場で王室ヨットのエル・マフルーサ号に乗り込み、エジプトを去りました。
このマフルーサ号は、1879年に廃位されたイスマイール大帝をイタリアへ運んだヨットと同じものでした。

▲エジプトを去るファルーク国王
エジプトを去る時「あらゆる革命家の人生における最高の瞬間とは、退位させた君主の王宮を歩き、その所有物に指を這わせるときだろう」と言い残しました。そして、自身の持ち物が奪い取られたとき「本当は壁に止まったハエでいたかった」と付け加えたました。
1953年6月18日、革命政府は正式に王政を廃止します。ムハンマド・アリー王朝による150年にわたる統治に終止符を打ちました。ファルークの幼い息子アフメド・フアードがフアード2世として国王に即位、1953年にエジプトは共和国になりました。
結果として、王子の誕生から数ヶ月後に国王夫妻はエジプトから追放された上、1954年に離婚します。
王の最期
1959年に親友のレーニエ3世大公からモナコ市民権を与えられました。晩年はギャンブルや社交のためにナイトクラブに通い続け、カフェ・ド・パリでコーヒーを飲みながら葉巻を吸い、少ない友人と話をして日々を過ごしたました。
1965年にイタリアのローマにあるレストラン「イル・ド・フランス」で、牡蠣とラム肉といういつものようにボリューム満点の夕食で若い女性をもてなした後倒れ、そのままこの世を去りました。45歳でした。
当時のニューヨーク・タイムズ紙の記事によると<死亡時の彼の携帯物はサングラスと拳銃1丁、ゴールドのカフリンクスと結婚指輪、腕時計と現金155ドル>だったそうです。

▲カイロにあるファルークの墓
現代の歴史学者たちは、ファルークが最後の後継者だったムハンマド・アリー朝が、驚くべき成功を収めていたという評価をしています。
ムハンマド・アリー朝は、19世紀初頭ではオスマン帝国の片田舎であったエジプトをたった数十年で強大な国家へと変貌させました。その勢力は、大英帝国が歯止めをかける必要性を感じるほど大きいものだったといいます。混沌と暴力がはびこる現代では、当時の華やかさや品格、宗教的な寛容さと洗練された社会を回顧して、“美しき時代”と呼んでいます。
伝説のコインコレクション「ファルークコレクション」とは
1954年に行われた亡命中のファルーク国王のコインコレクションのオークションは、20世紀最大のコインオークションとなりました。
中にはフランスの造幣局に大金を積み、「わたしのために1枚だけ製造してくれ」とお願いしたものもありました。銀貨のダイ(型)で金打ちを製造し、その後はダイを破壊するというのがファルークのスタイルだったようです。そんなユニーク(世界で1枚しかないコインのことをいう)なコインもこのコレクションに多数収められていました。

▲ファルークコレクションが出品されているオークションカタログ
エジプト政府がコレクションを売却することを決め、ロンドンにある老舗コイン商ボールドウィン社がコインの鑑定をし、サザビーズ社が売却を委託されました。
エジプトのカイロで、11日間にわたり「エジプト宮殿コレクション」として2,798ロットがオークションにかけられました。
サザビーズのスタッフ、ジョン・シングはわずか11ヶ月でオークションカタログを作成したといいます。カタログ用に写真が撮られたコインはほんの一部だけで、ほとんどのコインは希少性など関係なく複数枚ロット出品されました。

▲スラブには「Farouk(ファルーク)」の文字が
2021年のオークションで約20億円という価格で落札された”1933年の伝説のダブルイーグル金貨”もファルークコレクションの中の一枚でしたが、20ドル金貨17枚と希少な金貨が混在するロットで出品されました。
伝説のコレクションは現在もNGCやPCGSのスラブの「ファルークコレクション」として残っています。
その他の御成婚記念コインのご紹介
500ピアストル金貨以外にも様々な額面で発行されているのでご紹介します。
100 ピアストル(1 エジプトポンド金貨)
重量8.5g、直径24mm
発行枚数5,000枚

50クルシュ金貨
重量4.25g、直径21mm
発行枚数1万枚

20クルシュ金貨
重量4.25g、直径21mm
発行枚数25,000枚

エジプト ファルーク 御成婚記念 500ピアストル金貨の価格推移
エジプト王国の歴史に翻弄された国王の若き時代を閉じ込めたゴージャスなデザインの大型金貨ですが、状態によっては比較的手に入れやすいコインです。コインコレクターとして名を馳せるファルークのようなコレクターはもう二度と現れないかもしれません。
そんなファルークのコインのグレードと価格をご紹介します。
PR63 カメオ

2024年5月8日に$6,600で落札。
PF64 カメオ

2024年12月3日に$7,800で落札。
PF65

2023年1月17日に$8,400で落札。
PF65 カメオ

2023年8月17日に$9,000で落札。
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