フランス ナポレオン3世 100フラン金貨の歴史|第二帝政のフランスを映し出す金貨の世界

▲フランツ・ヴィンターハルター作ナポレオン3世


一枚の金貨を手に取ると、そこには19世紀のフランスが映し出されています。

ナポレオン1世の甥として生まれたルイ・ナポレオンは、亡命や政治的な挫折を経験しながら、やがて大統領となり、皇帝ナポレオン3世として第二帝政を築きました。その時代に発行されたのが、ナポレオン3世100フラン金貨です。

「無冠」と「有冠」の2つのタイプを持つこの金貨には、皇帝の肖像だけでなく、パリの近代化、万国博覧会、戦争、そして第二帝政の終焉へと向かう激動の時代が刻まれています。

金貨に刻まれた皇帝の横顔を入り口に、ナポレオン3世が生きたフランスと、このコインが映し出す歴史をたどってみましょう。

フランス ナポレオン3世 100フラン金貨

▲無冠

 ▲有冠


基本データ

コイン名 フランス ナポレオン3世 100フラン金貨
通称 ナポレオン3世 100フラン金貨
発行年 1855-1859年(無冠)、1862-1870(有冠)
国 フランス
額面 100フラン
種類 金貨
素材 金
発行枚数 無冠…約343,000万枚、有冠…約97,500枚
品位 Gold 90.0%
直径 35 mm
重さ 32.25806 g
統治者 ナポレオン3世(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、ルイ・ナポレオン)
デザイナー 無冠…ジャック=ジャン・バール  有冠…デジレ=アルベール・バール
カタログ番号 無冠…Franc 2014# 550, KM# 786、 有冠…Franc 2014# 551, Fr# 580, Gad 1789# 1136, KM# 802
表面のデザイン ナポレオン3世の右向き肖像(有冠タイプは月桂冠をつけている)、レジェンド、BARREのサイン
表面の刻印 NAPOLEON III EMPEREUR BARRE
裏面のデザイン 栄誉勲章の首飾りに囲まれ、マントと鷲が飾られた盾、その上に王冠、レジェンド
裏面の刻印 EMPIRE FRANÇAIS 100 FRs ミントマーク 年号
エッジのタイプ レタリングエッジ
エッジの刻印 DIEU PROTEGE LA FRANCE ( 神はフランスを守り給う)


フランス ナポレオン3世 100フラン金貨とは?

▲1836年のルイ・ナポレオン


フランスのナポレオン3世100フラン金貨には、「無冠(Tête nue)」と「有冠(Tête laurée)」の2つのタイプがあります。まずは、その特徴やデザイン、発行時期の違いから、この金貨の基本を見ていきましょう。



第二帝政を象徴する、フランスの100フラン金貨

フランスのナポレオン3世100フラン金貨は、第二帝政期に発行された金貨です。皇帝ナポレオン3世の肖像を刻んだこの金貨には、19世紀のフランスが大きく変化していった時代の姿が映し出されています。

額面は100フラン、金の品位は90%、重量は約32.26g、直径35mm。表面にはナポレオン3世の右向きの肖像と、「NAPOLEON III EMPEREUR(皇帝ナポレオン3世)」の銘が刻まれています。

この金貨には、1855~1859年に発行された「無冠」と、1862~1870年に発行された「有冠」の2つの主要なタイプがあります。同じナポレオン3世を描きながら、頭部に月桂冠を戴くかどうかという違いですが、2つを見比べると、その印象は大きく異なります。

そして100フランという大きな額面を持つこの金貨は、日常的に使われる小額貨幣とは異なる存在感を持っていました。表面には皇帝の肖像、裏面には第二帝政を象徴する意匠が配され、一枚の金貨の中に皇帝と帝国の姿が表現されています。



「無冠」に見る、若き皇帝の肖像

▲1852年に撮影されたルイ・ナポレオンの肖像写真


1855〜1859年に発行された「無冠(Tête nue)」タイプでは、頭部に月桂冠を戴いていないナポレオン3世の横向きの肖像が表現されています。

表面には「NAPOLEON III EMPEREUR(皇帝ナポレオン3世)」の銘が入り、肖像の下には「BARRE」の文字が刻まれています。これは貨幣彫刻を手がけたジャック=ジャン・バレ(Jacques-Jean Barre)の署名です。

裏面には「EMPIRE FRANÇAIS」の文字と100フランの額面が配され、鷲を中心とした第二帝政の紋章が描かれています。鷲やレジオン・ドヌール勲章など、帝国を象徴するさまざまな意匠が組み合わされたデザインです。



伝統的な「月桂冠」のデザインへ

▲漢方医高嶋祐啓によるナポレオン3世。高嶋は不平等条約である日仏修好通商条約の交渉に派遣された開市開港延期交渉使節(1862)に随行した。


1862年から100フラン金貨にも登場した「有冠(Tête laurée)」タイプには引き続き「NAPOLEON III EMPEREUR」の銘が刻まれましたが、肖像の頭部には新たに月桂冠が加えられました。

興味深いのは、「月桂冠を戴く肖像」が「ナポレオン3世の即位と同時に登場」したわけではなかったことです。月桂冠は「即位そのもの」を示すものではなく、古くから受け継がれてきた象徴的な意匠として有冠タイプに取り入れられたのです。

実は「月桂冠を戴くナポレオン3世」の姿は、以前からイタリア戦役をめぐる記念メダルや切手などにも使用されていました。その後、1861年から小額貨幣などに登場し、1862年に100フラン金貨にも採用されたのです。こうして伝統的な月桂冠のモチーフは、ナポレオン3世の肖像を表現する意匠の一つとして広がっていきました。

「無冠」から「有冠」へ。その違いは、単に肖像の装飾が変わったことだけを意味するものではありません。第二帝政の成立から約10年を経て成熟期を迎えた1860年代、月桂冠を戴く肖像を通じて、ナポレオン3世の皇帝像は新たなかたちで表現されるようになりました。

わずかな意匠の変化に目を向けることで、当時の皇帝の在り方と、それを取り巻く第二帝政期の時代背景を、より深く読み取ることができるのです。



ナポレオン3世100フラン金貨が生まれた時代――第二帝政のフランス

▲1861年から1870年のイタリア情勢の風刺画


ナポレオン3世100フラン金貨に刻まれているのは、ひとりの皇帝の肖像だけではありません。そこには、第二帝政のもとで大きく変貌した19世紀フランスの姿が映し出されています。

ここからは、この金貨が生まれた時代の背景をたどっていきます。


ナポレオン3世とは?亡命者から大統領へ――ルイ・ナポレオンが歩んだ道

▲ナポレオン1世が退位した1814年の5月、マルメゾン城でジョゼフィーヌがロシア皇帝アレクサンドル1世を迎え、子どもたちを紹介する場面。右端に描かれているのは幼いルイ・ナポレオン。


ナポレオン3世の本名は、シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト。1808年、ナポレオン1世の弟ルイ・ボナパルトと、皇后ジョゼフィーヌの娘オルタンス・ド・ボアルネの間に生まれました。

彼が生まれた1808年、ナポレオン1世はまだフランス皇帝として帝国を統治していました。しかし、1814年にナポレオン1世が退位すると、第一帝政はいったん終わりを迎えます。 翌1815年にはナポレオン1世が一時的に復位する「百日天下」が始まるものの、ワーテルローの戦いで敗北。6月に再び退位し、第一帝政は完全に終わりました。

ボナパルト家はフランスを離れることになり、幼いルイ・ナポレオンも亡命生活へ入ります。 その後、アウクスブルクやアレネンベルク、ローマなどで過ごしながら成長した彼は、やがてボナパルト家の名を背負い、フランスの政治へ戻る道を模索するようになります。

しかし、その道は決して平坦ではありませんでした。


▲1836年10月30日、ストラスブールで蜂起を試みるルイ・ナポレオン(フィリポトー画、1853年)


1836年、ストラスブールで蜂起を試みますが失敗。 その後も政権復帰を目指し、1840年にはブーローニュ=シュル=メールで再び蜂起を試みて逮捕されます。終身刑を言い渡され、ピカルディ地方のアム要塞に収監されたルイ・ナポレオンは、そこで政治や経済について学び、執筆活動を続けました。1844年には、貧困問題を論じた『貧困の消滅について(De l'extinction du paupérisme)』を出版しています。

そして1846年5月25日、労働者に変装して脱獄。 ロンドンへ渡り、再び亡命生活に入ります。

亡命、蜂起、投獄に脱獄と、皇帝となる以前のルイ・ナポレオンの人生は、決して一直線に帝位へ向かうものではありませんでした。何度も失敗を重ねながら、再びフランス政治の舞台に戻る機会を待ち続けたのです。



大統領から皇帝へ――ルイ・ナポレオンと第二帝政の誕生

▲1851年12月2日、クーデター当日のパリを進むダロンヴィル将軍の騎兵隊


その転機となったのが、1848年の二月革命でした。七月王政が崩壊し、フランス第二共和政が成立すると、ルイ・ナポレオンはフランスへ戻ります。しかし、すぐに大統領選挙へ向かったわけではありません。1848年9月の補欠選挙で国民議会議員に選出され、まずは政治の舞台へ足場を築きました。

そして同年12月、第二共和政で初めて行われた大統領選挙に出馬。ナポレオン1世の甥という「ナポレオン」の名を背景に、約75%の票を得て大統領に選出されました。 当時のフランスでは、ナポレオン1世の記憶はまだ人々の中に強く残っていました。ルイ・ナポレオン自身の政治的主張だけでなく、「ナポレオン」という名前が持つ象徴的な力も、選挙において大きな意味を持っていたと考えられています。

亡命者だったルイ・ナポレオンは、こうしてフランス共和国の大統領となったのです。

しかし、大統領としての任期は4年で、当時の憲法では再選が認められていませんでした。 任期の延長や憲法改正をめぐる対立が続くなか、大統領と議会の緊張は次第に高まっていきます。

そして、1851年12月2日、ルイ・ナポレオンはクーデターを実行し、国民議会を解散します。 その後、国民投票によって新憲法制定の権限を問いました。投票では約92%が賛成し、1852年1月、新しい憲法が制定されます。

この憲法によって、大統領の任期は10年となり、国家元首に大きな権限が与えられました。そして同年11月、再び国民投票が行われ、帝政復活が承認されます。こうして12月2日、ルイ・ナポレオンはついに「ナポレオン3世」を名乗る皇帝となり、第二帝政が始まりました。

新しい帝政では、皇帝に大きな権限が集中しました。 議会の権限は限定され、立法や政府人事などにおいて皇帝が強い主導権を持つ体制です。一方で、国民投票によって国民の支持を確認する仕組みも用いられました。

しかし、第二帝政は18年間、同じ政治体制が続いたわけではありません。1860年代には議会の権限が徐々に拡大し、政治体制は次第に自由化へ向かいます。 そして1870年には、1860年代から進められてきた自由化改革をめぐって国民投票が行われ、改革が承認されました。

大統領から皇帝へ。そして、強い皇帝権力を持つ帝政から、再び議会の役割を広げる方向へ。

ナポレオン3世の18年間は、ひとつの政治体制が固定された時代ではなく、第二帝政そのものが変化していった時代でもありました。


ナポレオン3世の時代に形づくられた近代フランス――パリ万博と世界へ向かうフランス

▲1889年のパリ。凱旋門を中心に12本のアヴェニューが放射状に延びる都市景観。(アルフォンス・リエベール撮影))


皇帝ナポレオン3世の時代、フランスは大きく姿を変えていきます。その変化を最も鮮やかに映したのが、パリでした。

ナポレオン3世は1853年、ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンをセーヌ県知事に任命し、大規模な都市改造を進めます。新しい大通りや公園、上下水道などが整備され、それまでのパリとは異なる、広く近代的な都市景観が形づくられていきました。現在のパリを歩いたときに目にする街並みの一部も、この時代の都市改造に由来しています。

けれども、パリの変化を支えたのは、街路や建物だけではありません。その背後では、金融、産業、交通、都市開発が結びつき、経済の仕組みそのものが変わり始めていました。

第二帝政期には、1852年のクレディ・フォンシエ、クレディ・モビリエをはじめ、新しい金融機関が登場します。その後もCIC、クレディ・リヨネ、ソシエテ・ジェネラルなどが設立され、企業や鉄道、都市開発へ資金を供給する新しい金融の流れが広がっていきました。とりわけクレディ・フォンシエは、オスマンによるパリの都市改造を金融面から支える重要な役割を担っています。

金融の発展は、鉄道の急速な拡大とも結びついていました。鉄道によって人や商品、原材料の移動が活発になると、フランス国内の市場も次第に結びつきを強めていきます。パリには地方から人と商品が集まり、都市の消費市場も拡大しました。こうした都市化と消費文化の発展を背景に、19世紀後半には百貨店も成長していきます。

▲1855年パリ万国博覧会の開会式。産業宮で開会式を行うナポレオン3世(ルイ=ジュール・アルヌー画)


そして、こうしたフランスの変化を世界に示したのが、1855年と1867年にパリで開催された万国博覧会でした。産業や技術だけでなく、建築、装飾芸術、ファッションなどが一堂に集められ、パリは「近代」を世界に見せる国際都市として存在感を高めていきます。

その華やかな舞台の背景には、長い時間をかけて進んできた都市と経済の変化がありました。オスマンによって整えられた大通りを人々が行き交い、鉄道によって地方から商品が運ばれてくる。銀行には資金が集まり、それが産業や都市開発へと流れていく。新しく生まれた百貨店にはさまざまな商品が並び、都市の消費文化も広がっていきました。

万国博覧会は、形づくられつつあった新しいフランスを、世界に向けて一つの風景として見せる場でもあったのです。 第二帝政期のパリは、こうして近代都市としての姿を整えていきました。

そして、ナポレオン3世の視線は国内だけに向けられていたわけではありません。クリミア戦争ではフランスがヨーロッパの国際政治に復帰し、イタリア統一をめぐってはオーストリアと戦うサルデーニャ王国を支援しました。 さらにアルジェリアでの支配を強め、インドシナなどへの進出を進める一方、メキシコにも軍事介入を行っています。

また1860年にはイギリスとの通商条約を結び、自由貿易へと大きく舵を切りました。 関税を引き下げ、国際的な貿易を促進するこの政策も、産業や金融の変化と結びついていました。

ナポレオン3世の18年間は、国内の都市と経済、そしてフランスの国際的な位置が、ともに大きく動いた転換期だったのです。


普仏戦争――セダンで終わった第二帝政

▲セダンの戦場に立つナポレオン3世(ヴィルヘルム・カンプハウゼン画、1877年))


華やかな都市改造や万国博覧会を通じて、近代化するフランスの姿を世界に示していた第二帝政。しかし、その終わりは、外交上の緊張から急速に近づいていきます。

きっかけとなったのが、スペイン王位継承問題でした。プロイセン王家の一員であるホーエンツォレルン家の王族がスペイン王位候補となったことで、フランスは東西からプロイセンを中心とするドイツ勢力に挟まれる可能性を警戒します。

候補者の辞退によっていったん危機は収まりかけましたが、プロイセン王ヴィルヘルム1世とフランス大使とのやり取りをめぐる「エムス電報」が両国の緊張をさらに高めました。こうして外交問題は戦争へと向かい、1870年7月19日、フランスはプロイセンに宣戦布告します。

しかし、開戦後のフランス軍は苦戦を重ねます。8月には各地で敗北が続き、9月1日、フランス軍はセダンでプロイセン軍を中心とするドイツ諸邦の軍に包囲されました。翌2日、降伏が決定され、ナポレオン3世自身も捕虜となります。

皇帝が戦場で捕らえられたという知らせは、パリにもたらされました。

そして9月4日、パリでは第二帝政の崩壊が宣言され、第三共和政が成立します。国防政府が組織されたことにより、1852年に始まった第二帝政は、およそ18年で幕を閉じました。

ただし、帝政の終わりは戦争の終わりではありません。

新たに成立した共和政政府は戦争を継続し、9月にはプロイセン軍によるパリ包囲が始まります。セダンで捕らえられた皇帝とともに第二帝政は消えましたが、フランスを待っていたのは、さらに厳しい戦争と、その後の大きな政治的変動でした。



フランス ナポレオン3世のその他のコイン

ナポレオン3世の時代には貨幣制度の改変にともない、さまざまな金貨・銀貨のデザインや規格が試みられました。正式に発行された貨幣だけでなく、新しい仕様を検討するための試鋳貨も数多く作られています。

ここでは、ナポレオン3世時代のコインの中から、特に興味深いコインを中心に紹介します。

フランス ナポレオン3世 50フラン金貨 試鋳貨 (1854年)

1854年に製作された、ナポレオン3世の50フラン試鋳貨です。

表面には、左を向いたナポレオン3世の肖像。その下には、彫刻家ジャック=ジャン・バレ(Jacques-Jean Barre)の名「BARRE」と、「ESSAI 1854」の文字が刻まれています。「ESSAI」はフランス語で「試作・試鋳」を意味する言葉。つまり、この金貨が正式な流通貨幣としてではなく、新しい50フラン貨のデザインを検討するために作られたことが分かります。

裏面には、翼を広げた帝国の鷲。その周囲に「EMPIRE FRANÇAIS」と「50 FRANCS」が配されています。ナポレオン3世の肖像と帝国の象徴が、表と裏にそれぞれ印象的に刻まれたデザインです。

この1854年の50フラン試鋳貨には、少し興味深いところがあります。

Numistaなどの資料を見ると、金メッキの試鋳貨が確認される一方、金90%の個体も掲載されています。こうした資料からも、1855年の正式発行までに試作が重ねられたことが伺えます。

正式に発行された金貨とはまた違う、まだ形を決める途中にある貨幣。そこに、試鋳貨ならではの魅力があります。


フランス ナポレオン3世 10フローリン金貨 試鋳貨(1867年)

1867年に製作された、ナポレオン3世の10フローリン金貨の試鋳貨です。

表面には左向きのナポレオン3世の肖像が刻まれ、肖像の下には彫刻家バレ(BARRE)の名が入っています。裏面には「10 FLORINS」と「25 FRANCS」という二つの額面が並び、中央には帝国を象徴する鷲が配され、この二つの額面こそが、この試鋳貨の大きな特徴です。

フローリンは、オーストリアなどで使われていた通貨単位。この金貨は、10フローリンをフランスの25フランと同じ価値として扱う構想から生まれました。1867年にはパリで国際通貨会議が開かれ、ヨーロッパ各国の貨幣制度を結びつける動きが進んでいたのです。

さらに、裏面には「OR ESSAI MONETAIRE」と刻まれています。「OR」はフランス語で「金」、「ESSAI MONETAIRE」は貨幣の試作・試鋳を意味する言葉です。国際的な貨幣制度が模索されるなか、その構想を一枚の貨幣として形にしたことが分かります。

金製で、重量は約8.1g、直径は約23~24mm。ナポレオン3世の肖像と、フランスとオーストリア圏にまたがる二つの通貨単位が収められた、興味深い1枚です。

結局、10フローリン=25フランという構想が実際の流通貨幣として定着することはありませんでした。それでもこの小さな試鋳貨には、国境を越えて貨幣を結びつけようとした第二帝政期のフランスと、19世紀ヨーロッパの国際化の動きが刻まれています。


ウジェニー皇后大通りの礎石設置記念メダル(1860年)

1860年、アルジェリアの首都アルジェで行われた「ウジェニー皇后大通り(Boulevard de l'Impératrice Eugénie)」の礎石設置を記念して製作されたメダルです。直径は約51mmと、通常の金貨よりも大きなサイズ。銀や銅、青銅などの個体も確認されています。

表面には、ナポレオン3世とウジェニー皇后の胸像が並んで刻まれています。ナポレオン3世は月桂冠を戴き、ウジェニー皇后は頭部に冠を身につけた姿。二人の下には、宮廷彫刻家アルマン=オーギュスト・カケ(Armand-Auguste Caqué)の名が刻まれています。

▲ウジェニー皇后


裏面には、アルジェの大通りの礎石設置と、その大通りが皇后の名を冠したことを記念する長い銘文が刻まれています。この大通りは、アルジェの港と市街地を結ぶ都市整備の一環として計画されたものです。単なる道路の建設ではなく、港湾の整備や商業施設の建設などを含む、大規模な都市計画でした。

当時の第二帝政では、皇帝夫妻の訪問や公共事業、都市整備などの出来事が、メダルによって記録されました。パリではアルマ橋やオーステルリッツ橋の再建などを記念したメダルも発行され、この一枚にも、皇帝と皇后の肖像とともに、帝国の都市建設とアルジェリアにおけるフランスの存在が刻まれています。

ナポレオン3世の肖像の向こうに広がる、もうひとつの第二帝政。それは、フランス本国から地中海を越えたアルジェまで広がっていた、帝国の時代でした。


10サンチーム型銀メダル(1854年)

1854年に製作された、ナポレオン3世の10サンチーム型銀メダルです。直径は約30mm、銀製個体の重量は11.64g。
一般の10サンチーム貨とは異なり、リール証券取引所にナポレオン1世の記念碑が建立されたことを
記念して発行されたものです(一部、「ナポレオン3世の記念碑」と記載しているサイトもありますが、リール美術館やフランス国立図書館などの記録では「1854年のナポレオン1世の記念碑」とされているようです)。

表面には左を向いたナポレオン3世の肖像。「NAPOLEON III EMPEREUR」の文字と、彫刻家ジャック=ジャン・バレ(Jacques-Jean Barre)の名が刻まれています。月桂冠を戴かない「無冠」の肖像で、ナポレオン3世100フラン金貨の初期タイプとも共通する姿です。

裏面には「A NAPOLEON I LA CHAMBRE DE COMMERCE DE LILLE」とナポレオン1世の名が刻まれ、中央には記念碑建立を意味する銘文と日付が配されています。

ナポレオン3世の肖像コインの裏側に刻まれた、叔父ナポレオン1世の名。そこには、第二帝政の時代に受け継がれたボナパルト家の記憶を見ることができます。

▲当時建立された記念碑

 


ナポレオン3世100フラン金貨の価格推移

無冠と有冠の2つのタイプが発行されているので、両方の価格推移をみてみましょう。グレードによっては手に入りやすいコインです。

無冠

1858年 A(パリミント) AU55

発行枚数92,000枚。

2026年5月17日に$4,880で落札。


1858年 A(パリミント) MS64+

発行枚数92,000枚。

2026年9月3日に$12,810で落札。


有冠

1866年 A(パリミント) AU58

2026年5月17日に$5,002で落札。


1867年 BB(ストラスブールミント) MS64

発行枚数2,807枚。

2026年9月3日に$19,520で落札。


1862年 PR65 Cameo

2021年3月25日に$288,000で落札。



まとめ|ナポレオン3世100フラン金貨から第二帝政を読み解く

▲1865年頃のナポレオン3世とウジェニー皇后


ナポレオン3世100フラン金貨は、皇帝の肖像と額面を刻んだ金貨であると同時に、19世紀フランスの大きな変化を映し出す一枚でもあります。

無冠から有冠へと変化した皇帝の肖像。その背景には、亡命生活を送ったルイ・ナポレオンが大統領となり、やがて皇帝として第二帝政を築いた時代がありました。

その18年間、フランスではパリの都市改造、鉄道や産業の発展、万国博覧会などを通じて、社会の姿が大きく変わっていきます。一方で、戦争や植民地政策によってフランスの国際的な立場も動き、最後には普仏戦争とセダンの敗北によって第二帝政そのものが終わりを迎えました。

ナポレオン3世の時代を、単純に「栄光」や「失敗」のどちらかだけで捉えることはできません。共和政から帝政へ、そして再び共和政へ。その間に、都市も産業も金融も、人々の暮らしも大きく変化していきました。

無冠のナポレオン3世と、月桂冠を戴いたナポレオン3世。

そこに刻まれたわずかな違いは、単なるデザインの変化というだけではありません。その向こうには、亡命者だったルイ・ナポレオンが皇帝となり、近代化を進めたフランスが、やがて戦争のなかで第二帝政の終わりを迎えるまでの時間が存在しています。

一枚の金貨を眺めることは、その肖像が刻まれた時代、その金貨が使われた街、その背後で動いていた政治や経済、そして人々が生きていた19世紀のフランス…...金貨の向こう側に広がる歴史をたどることでもあるのです。

ナポレオン3世100フラン金貨は、皇帝の姿を残した一枚であると同時に、フランス第二帝政というひとつの時代を映す、小さな歴史の入口と言えるでしょう。