古代ローマ最強の武将「偉大なる」ポンペイウス

ポンペイウス胸像

ポンペイウス胸像

紀元前48年8月9日、
ギリシア半島のファルサルスでは
ローマの覇権をめぐる最終決戦が行なわれようとしていた。

一方は事実上の帝政を目指さんとするガイウス・ユリウス・カエサル。
もう一方は共和制を維持しようとする一派の軍を率いる
グナエウス・ポンペイウス・マグヌスである。

カエサル軍の戦力は重装歩兵22000及び騎兵1000、
ポンペイウス軍の戦力は重装歩兵47000及び騎兵7000。
単純兵量ではカエサル軍は圧倒的に劣っていたが、
ガリア戦役を先日までカエサル麾下で戦い抜いた精鋭であり、
単純比較はできない。

西方のガリアを征服したカエサル、
東方のオリエントを征服したポンペイウス。
歳も近いローマ最強の武将2人が雌雄を決せんとしていた。

「偉大なる」ポンペイウス

アレキサンダー大王、カール大帝、フリードリヒ大王等々・・・・・・、
歴史に名を残す彼らに共通する称号が
「大王」もしくは「大帝」だ。

英語に直すと共通して”the great”。
「偉大なる」と日本語では言うべきだろう。

この称号を手にするのは
偉大なる征服者かキリスト教の守護者となった君主である。
しかし、古代ローマには一武将でありながら
この称号を生前に手に入れた男がいた。

彼の名はグナエウス・ポンペイウス。
ラテン語で「偉大なる」という称号 ”Magnus” をつけて
グナエウス・ポンペイウス・マグヌスと後世では称されている。

彼はローマの実力者スッラの配下として台頭し、
対立する勢力との内戦を勝ち抜くのに多大な功績を示した。
これにより、スッラはマグヌスの称号を25歳の青年に与えた。
しかし、この称号に真に値する活躍を見せるのはこのあとであった。

苦戦中のイベリア半島で発生した属州総督の反乱に対し、
元老院は例外として29歳の最高司令官を派遣することを決議する。
反乱は瞬く間に鎮圧された。

紀元前67年、今度は地中海一帯で甚大な被害をだしていた
海賊討伐を企画する。
それは歩兵12万、騎兵5000、500隻の軍船を
3年間ポンペイウスが預かるという壮大なものだったが、
これも可決された。

軍事行動を開始したポンペイウスは効率的な戦略をもとに
海賊の根拠地を次々につぶしていった。
結局3年間どころか3カ月弱で地中海に平和をもたらしてしまう。

彼のもとには依然、最高指揮権が残っていた。
これを今度は東方でローマに敵対していた
黒海南岸にあるポントス王国の王ミトリダテス6世対策に利用し、
これを撃破する。

紀元前64年からはシリア方面へ南下を開始。
オリエントとよばれたこの地域を平定し、
ローマの支配地域に組み入れた。

そして、手に入れた巨万の富とともにローマに凱旋する。
ポンペイウスの名声は圧倒的なものとなった。

ポンペイウス進軍図

ポンペイウス進軍図

この名声を元老院は警戒してポンペイウスの力を削ごうと動くが、
逆に実力者カエサル及びクラッススと密約を結ぶことで力を維持した。
この三者によるローマ政治が世に言う三頭政治である。

カエサルとの決別、そして決戦

しかし、風向きが変わる。
ガリア戦役でカエサルの名声と実力が高まり、
クラッススが対パルティア戦争で敗死してしまったのだ。
三頭政治体制は崩壊した。

ガリアから軍団を率いてイタリアへ帰還したカエサルを警戒し、
元老院は軍団解散命令などカエサルの力を削ぐ手段を講じる。
しかし、カエサルは強硬姿勢をとり、ローマへ進撃を開始。
ここに内乱が発生した。

元老院はカエサルに対抗しうる人材としてポンペイウスを頼る。
彼もまた、実力者の一角としてカエサルに対抗せざるをえない。
ポンペイウス58歳、カエサル52歳。名将同士の抗争が始まった。

内乱は一進一退を繰り返し、
最終的にカエサルの誘いに敢えて乗るかたちで
ポンペイウスはライバルと決着をつけるべくファルサルスに進出する。
場面は冒頭に戻る。

布陣を終えたポンペイウスは左翼に全騎兵を配置し、
敵右翼を撃滅させて背後にまわらせ、挟み打ちにする策戦をとる。
アレクサンドロス3世、ハンニバルといった名将が採用した包囲殲滅戦法であった。

騎兵7000は怒濤のごとく敵に迫った。
しかし、カエサルから秘策を授けられた精鋭が立ちふさがった。
彼らは馬の充分な空間がないと動けなくなる習性を利用し、
巧みに槍をもって騎兵を囲い込んでしまい、無効化した。

ポンペイウスの決戦力をカエサルが奪ったことで、
この戦いの勝敗は事実上決まったのだ。

ファルサルスの戦い

ファルサルスの戦い

その後、ポンペイウスは自らの保護国エジプトに逃れたが、
裏切りにあって暗殺される。
ローマ最強の武将のは戦場ではなく、政治的駆け引きのなかで散った。

コインについて

共和政ローマ ポンペイウス シチリア 紀元前40-42年 デナリウス貨

共和政ローマ ポンペイウス シチリア 紀元前40-42年 デナリウス貨

今回ご紹介するコインは
紀元前40-42年頃にポンペイウスの息子セクストゥス・ポンペイウスが発行した
デナリウス銀貨だ。
デナリウス銀貨はBC.211年からAD.240年頃までローマで流通した。

片面はポンペイウスの横顔が刻印されている。
これはセクストゥス・ポンペイウスの肖像とする場合もあるが、
彼は当時28歳前後であり、老齢とも言えるコインの顔の印象ではない。
やはり、父ポンペイウスの顔であろう。

横顔の周囲には本来MAG PIVS IMP ITERと打刻されているが、
残念ながらこのコインでは末尾が潰れてしまっている。

MAG PIVSはセクストゥス・ポンペイウスのフルネーム、
Sextus Pompeius Magnus Piusの後半部を略したものである。
当時はアルファベットのVとUの区別がないことに留意したい。

IMP はローマにおける最高司令官の称号imperatorの略だ。
ITERはラテン語で道の意味だが、
この場合この解釈であっているのか不明である。

もう片面は中心にローマ神話の海神ネプチューンがいる。
そして左右には両親を肩に担ぐアンフィノモスとアナピアスが配置されている。

故事によると、
この二人はシシリー島のアイトナ山が噴火したとき
両親を肩に担いで逃げたところ、溶岩が触れなかったという。
親孝行の象徴と言えるエピソードだ。

セクストゥス・ポンペイウスは
父の死後も反カエサルの急先鋒として活動し、
カエサルの死後もその後継オクタヴィアヌスに対抗して地中海に勢力を張った。

このコインは偉大なる父の弔い合戦に燃える彼にふさわしいものだと言えるだろう。

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