国家となった会社-イギリス東インド会社-

イギリス東インド会社

「会社」といえば皆さんはどのようなものを思い浮かべるだろう。
仕事場であろうか、取引先であろうか、それともいつも買う商品をつくるところであろうか。

どのような会社を思い浮かべたにしろ、
何かしらの商品を生み出してそれを売って利益を得ているということは共通しているのではなかろうか。

しかし、18世紀から19世紀にかけてそうではない会社が存在した。
それが「イギリス東インド会社」だ。

この会社は商品売買ではなく、税収を主な収入源としていたのである。
いったいどういうことだろうか。

イギリス東インド会社は1600年に設立され、
当時のイギリス女王エリザベス1世からアジア方面との貿易の独占を認められていた。

そのころの東南アジアや南アジアは香辛料や香料の世界的産地で、
そうした物産の交易に参加することで利益を得て、国家の財政を助けるのが会社の使命だった。
その点では「普通の」会社だったと言える。
当初は東インド諸島(現在のインドネシア付近)を拠点に交易を行なっていたのだが、
ライバル会社であるオランダ東インド会社に市場を奪われ、撤退を余儀なくされることになる。

ちなみにこの当時の会社間の競争は文字通り「争い」であって、
例えば1623年にはオランダ東インド会社がイギリス東インド会社の商館を襲撃して皆殺しにするというアンボイナ事件が発生している。

なんとも血なまぐさい話であるが、
当時のこのような会社は王から軍事権も与えられており、力ずくで市場を奪い合うのが当然だったのだ。

現地で傭兵を雇うこともあり、イギリス商館は日本人を傭兵として雇っていた記録がある。
日本は江戸時代初期、まだ鎖国前であった。

インドで飛躍する東インド会社

イギリス東インド会社(ロンドン)

イギリス東インド会社(ロンドン)

17世紀末頃、
東インド諸島から撤退したイギリス東インド会社はインド西海岸に拠点を移すことにした。

インドは良質な綿織物を産出する先進工業国であって、
イギリス東インド会社はこれを主力商品として交易を行なった。

交易は順調で、徐々にその勢力を増していくことになる。

転機が訪れたのは18世紀である。

1700年、インドの大半を支配していたムガル帝国から領土を買い、根拠地として整備した。

インドにおけるイギリス東インド会社の商売敵はフランス東インド会社であった。
既に述べたようにこの時代は会社が武力で市場を奪い取る時代だ。
フランス東インド会社はしばしばインドの有力者とうまく手を結んでイギリス東インド会社を攻撃した。
ところが逆に反撃を受けて敗北し、フランス勢力はインドから撤退することになり、イギリス東インド会社の勢力圏は拡大する。

これで一強と状態となったが、
これが面白くないのがムガル帝国皇帝を含む現地インドの有力者たちだ。

1765年に彼らはイギリス勢力を打倒しようと団結して戦いを挑むが、激戦の末に敗れてしまった。
その結果、イギリス東インド会社は賠償金代わりにベンガル州、オリッサ州という広範囲の領土を獲得する。

かれらにとって好都合だったのが、ムガル帝国の力が衰えて求心力を失っていたことで、
これ以降も各地の領主を各個撃破し、領土を奪っていくことになる。

統治機関東インド会社

セポイの乱

セポイの乱

領土を持つとはどういうことか。
それは税金をとれるということだ。

領土が拡大していくにつれ、イギリス東インド会社の収入源は交易から税収が主となっていった。
なんといっても、支配地から富を吸い上げればよいだけなのだ。
利益追求の結果とも言えるだろう。
この状態に拍車をかけたのがイギリス本国の方針転換だ。

もはや単なる交易会社では無くなったとはいえ、
アジア交易の独占が保障されていたのがイギリス東インド会社だった。

しかし、国内で貿易への自由参入を望む声が高まり、
独占は廃止され、アジア貿易は自由化されたのである。
そしてついには貿易活動自体から締め出されることになった。
1833年のできごとだ。

貿易会社としての役割が無くなったイギリス東インド会社は領土経営に集中していくことになる。
こうなってくるともう政府組織と呼んで差し支えないだろう。
かれらは一企業でありながら事実上国家となったのだ。

しかし、一企業がこれだけの領地を持つということはイギリス本国の反感を買った。

1858年に発生したインドの大反乱の責任をとる形でイギリス東インド会社のインド統治廃止が決まり、
インドはイギリス直轄地となってしまう。
王からの特権が廃止されてしまってはかれらになすすべはなかった。
こうして、大きな力を誇ったイギリス東インド会社という言わば企業国家はあっけなく終わりを迎えたのである。

コインについて

1841年 イギリス領インド モハール金貨

1841年 イギリス領インド モハール金貨

今回紹介するコインはこの東インド会社がインドで発行したモハール(ムハール)金貨だ。

モハール金貨自体はインドにもともとあったもので、
最初につくられたのが16世紀中頃である。

現在インドで通貨として流通しているルピーという単位もこのときつくられた。
管理地域で独自の通貨を発行してよい権利を1677年の時点で国王から得ていた東インド会社は、
現地通貨であるモハール金貨に独自の打刻を施して鋳造し、インドで流通させることになる。

片面はビクトリア女王もしくはウィリアム4世の肖像画、
もう片面はライオンとヤシの木が刻印されている。

ライオンはイギリスの象徴であり、
コインのデザインとしてはイギリスの「ウナとライオン」と呼ばれるソブリン金貨に採用されているのが有名だ。
この「ウナとライオン」と今回のモハール金貨、実はデザインが同一人物である。

ヤシの木はおそらく南国の象徴だろう。
実はヤシの木は1836年に始めてインドに伝わったもので、インドそのものとの馴染みは薄い。

このデザインのモハール金貨は東インド会社発行のものだけである。
イギリスが直接インド統治を始めるようになってからのモハール金貨は
片面がライオンとヤシの木ではなく文字と紋様だけだ。

それゆえに、この金貨は
利益を求め続けてついに国家のようになってしまったイギリス東インド会社が歴史に残した刻印のようなものだと言えるだろう。

 

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