花のお江戸の一大プロジェクト、江戸を支えた公共事業

公共事業というものは
政府が行なう重要な経済活動のひとつだ。

利権の温床のように言われることもあり、
実際そういった側面を全否定することはできないが、
それでも我々の日常生活は公共事業無しには成り立たない。

道路や港湾の整備、林野の保全整備、上下水道サービスの提供など、
どれが欠けても生活に支障をきたすだろう。

また、公共事業には雇用の創出など経済に働きかける役割もある。

これらの公共事業は近代に限るわけではなく、
人類史の古くから行なわれていた。

エジプトのピラミッド建設は
実は公共事業であったという説も有力であるし、
古代ローマの水道や道路建設は完全に公共事業だ。

東洋でも秦の始皇帝による北方防御のための長城建設、
隋の煬帝による大運河建設などは暴政の産物ともされるが、
長い目で見れば中国に利益をもたらす公共事業であった。

国家あるところに公共事業あり、と言っていいのかもしれない。

では日本の古い時代はどうであったのかということで、
今回は江戸時代ではどんな公共事業がなされていたのか、
見てみるとしよう。

世界の大都市、江戸の誕生

まずは、江戸の街づくりだ。

戦国時代、江戸は諸説あれど、
到底天下の中心たるような都市ではなかった。

徳川家康が江戸に入り、ついで幕府をひらくに至って、
急速に整備が進んでいくのである。

1606年から翌年にかけて
「天下普請」ともよばれる一大都市開発が諸大名を動員して行なわれた。

江戸城は拡大改築され、水路や町地も整備された。
いまも交通の起点となっている日本橋も
このとき架けられたのである。

開発工事で常に江戸の町は粉塵が舞い、
眼病を患う者が多発したのに便乗して
薬でひと財産築いた人物もいたらしい。

大開発の雰囲気が伝わるエピソードと言えよう。

さて、このように整備された江戸であったが、
時代が下るにつれ、予想を上回る人口規模になるなど
飽和状態になってきた。

再開発が求められる事態となったのだ。

そこで、
まずは当初日本橋近くにあった遊廓街が郊外に移される。

江戸の町が整備された当初は
日本橋近くは郊外であったのが、
市街地拡大によって中心に近くなってしまったのだ。

古い遊廓街が葦の生い茂る葦屋町にあったことから
「吉原」と呼ばれていたことにちなみ、
この新しい遊廓街は「新吉原」と呼ばれるようになった。

そして、この移動の最中、歴史に名高い明暦の大火が発生する。
世にいう振り袖火事である。

江戸・東京で10万人規模の死傷者を出したのは
関東大震災、東京大空襲そしてこの明暦の大火のみだ。

明暦の大火

明暦の大火

そこからもこの火事の規模がわかろうというものだ。

ただ、この火事は被害は別にして、
都市開発の視点からはチャンスであった。
全てが更地になってしまったので、
計画的に再開発を進めることが可能になったのだ。

「天下普請」以上の資本が投入され、再開発が始まった。

大名屋敷や寺社の移転が行なわれ、
浅草、赤坂など新たな町地が整備された。

それまで軍事上の理由から橋がなかった隅田川に架橋され、
現在の両国橋が誕生したのもこのときだ。

これにより、隅田川以東、
すなわち江東でも市街地が造られるようになり、
現在の下町につながるのである。

これをもって江戸の基本的骨格は完成したといって良い。

のちに同時代の世界においても数少ない100万都市となり、
華やかな町人文化がさかえることになる
「お江戸の町」が産声をあげたのだ。

1849年の江戸

1849年の江戸

大規模な水道事業

都市の拡大につれて、
重要性が増していったのが飲料水の確保である。

もともと低湿地で飲料水確保に難があった江戸では
水を遠くから引いてくる必要があった。
つまり、上水道整備だ。

まず、井の頭池を水源とする神田上水(現在の神田川)などが整備された。
そして、幕府成立から50年後には
町人に請け負わせる形で玉川上水が造られる。

この上水は多摩川から武蔵野台地を横切って
江戸中心部まで水を引くという
日本史上初といっても良い大工事であった。

丘を越え、窪地を突き抜け、
水路を横切って進む上水は当時最高の技術を駆使して完成されたのである。

玉川上水が描かれている浮世絵

玉川上水が描かれている浮世絵

玉川上水によって、
水源に乏しかった地域にも水が供給されることになり、
新田開発が可能となった。

江戸時代は武士の給料が米、という時代である。
幕府としても収入を増やすべく
新たな農地の開発に積極的であった。

幕府は開発者には税制で優遇措置をとるなどして、
新田の開発を奨励する。

多くの失敗と挫折がありつつも、
江戸期の200年で収穫高は約1.7倍に増加したのである。

この収穫量の増加は人口増加を産み、
余剰生産物を発生させて商業や運送業の発展につながるなど、
江戸時代日本の経済発展の基礎となった。

経済と文化に影響をもたらした参勤交代

最後に公共事業として取り上げたいのが参勤交代である。

参勤交代が公共事業とは、
と首を傾げる方もいるかもしれない。

しかし、よく考えてみれば、
参勤交代は数万人規模が全国各地と江戸を往復する
一大事業なのである。

江戸時代の諸大名は
慢性的な財政赤字を抱えるところが多かった。

その原因のひとつが参勤交代による出費である。
最大の藩のひとつ加賀藩の旅費は
現代に換算すると5億円とも言われる。

大名たちにとっては痛い出費であるが、
庶民たちにとっては別だ。

なにしろ、大名行列は
街道沿いにカネを撒きながらやってくるのに等しいのである。

街道や宿場町はこうして栄えるようになった。

歌川広重による浮世絵『東海道五十三次』の「程ヶ谷(保土ヶ谷)宿」

歌川広重による浮世絵『東海道五十三次』の「程ヶ谷(保土ヶ谷)宿」

また、大名行列が通るためには
きちんと街道が整備されていないといけない。

架橋工事や道路工事が全国各地で行なわれ、
日本を縦断する交通網ができあがっていった。

こうした交通インフラの整備によって
庶民の移動も活発になる。

商業活動はもちろんのこと、観光も盛んになった。
お伊勢参りという文化が誕生したのは江戸時代である。

参勤交代は文化の発展にも寄与した。

浮世絵は手軽な江戸土産として地方の武士に好評であり、
盛んに書かれるようになった。

また、江戸の観光案内などの出版物も需要を得て発展したのだ。

こうした経済・文化的効果を
幕府が意図して行なったのかは不明である。

しかしながら、歴史に与えた影響を鑑みるに
参勤交代は立派な公共事業として成立していると言えよう。

花のお江戸の一大プロジェクト、江戸を支えた公共事業アンティークコインギャラリア | 旧ナミノリハウスで公開された投稿です。