徳川家康の天下統一と江戸幕府の幕開け!慶長大判とその歴史

武州豊嶋郡江戸庄図

慶長大判

基本データ

コイン名 慶長大判
通称 日本 慶長大判
発行年 1601年(慶長6年)
日本
額面 捨両
種類 金貨
素材
発行枚数 諸説あるが不明
品位 Au 674/Sv 285/他41
直径 タテ143 mm・ヨコ84 mm
重さ 164.7g
統治者 徳川家康
デザイナー -
カタログ番号 -
表面のデザイン 墨書きで捨両後藤と花押
表面の刻印 上下左右に桐の刻印
裏面のデザイン なし(刻印のみ)
裏面の刻印 桐の刻印と座印
エッジのタイプ 打刻
エッジの刻印 桐の刻印

徳川家康の天下統一を象徴し、徳川幕府の幕開けを飾る大判こと、慶長大判。流通しないことを前提に作られた、贈呈用の大型貨幣と言われています。

江戸時代には慶長大判、元禄大判、享保大判、万延大判、天保大判の5種類の大判が製造されました。

▲慶長大判(※四隅は留め具)

慶長大判の現存枚数が少ない理由に、のちに製造された享保大判が市場に出回り始めると、それまで流通していた慶長大判を両替商に持ち込まれるようになったと『両替年代記』に記録されています。 当時の勘定奉行である大岡忠相に相談があったところ、「潰し金として扱う」との返答があり、慶長大判金は市場から消えてしまったとされています。


慶長大判が作られた時代背景

豊臣秀吉の時代から作られている大判は、その名の通りサイズが大きく持ち運びに不便なため、大判より小さな額の金貨を製造する必要がありました。江戸幕府開府後の1601年(慶長6年)に徳川家康の命で、墨を使わずに大量生産できる慶長小判が製造され、その時に慶長大判も製造されました。小判は人々の通貨として使用されるようになり、大判は恩賞や贈答用に用いられました。

当時、有力な金山であった佐渡金山(現在の新潟県)と伊豆金山(現在の静岡県)を幕府の直轄地としました。

前の時代に豊臣秀吉が作らせた「天正大判」の様式を踏襲し、後藤家によって製造が続けられました。

慶長大判1枚は小判10両分(10枚分)の価値をもつと設定された高額貨幣です。

当時街中で通用していた「寛永通宝」の換算にすると、4万枚分にも上ります。

1両は米1石(約150㎏)を購入できる金額を基準としています。今の換算で例えると、スーパーでお米を5㎏を約2000円程度とすると1㎏=400円。

これを1石にあてはめると、1両=米150㎏×400円=6万円となります。

慶長大判の発行された時代は、まだまだお米が高級品だった時代です。

ブランド米で換算すると、ひと昔前はだいたい5㎏で3,000円~4,000円でした。

1㎏700円で計算すると1両(米150㎏)×700円=10万5,000円。

慶長大判は10両なので、10万5,000円×10=慶長大判1枚は105万円という計算になります。

高額決済用の大判は、江戸の庶民が持つことはほとんどありませんでした。

 

慶長大判を製造していた「後藤家」とは?

豊臣秀吉から引き継いた徳川家康は、後藤四郎兵衛家に金貨製造を依頼します。そこで働いていた「橋本庄三郎光次」(はしもとしょうざぶろうみつじ)に慶長大判の製造を命じます。

▲静岡市葵区安西寺にある後藤庄三郎光次の銅像

そして、徳川家康は橋本庄三郎光次に後藤姓と屋敷を与え、貨幣としての流通を前提とした慶長小判を製造する事業団体「金座(きんざ)」を作りました。

これを機に、後藤庄三郎光次を当主とした後藤家を中心に金座組織が形成され「小判師(こばんし)」と呼ばれる職人達によって製造が行われました。

後藤家は屋敷で「御金改役(ごきんあらためやく)」と言う金貨の鑑定と検印を行う役に就き、金貨の製造は屋敷近くの施設で小判師達が行うことになっていました。

しかし、金貨製造の管理を厳しくするため、1698年(元禄11年)からは後藤家の敷地内に施設を移して作業を始めました。

このようにして製造されていた慶長小判には、後藤家当主の名である「光次」と後藤家の花押が刻まれています。

後藤家は初代以降代々世襲制の家職となり、江戸時代を通して幕末まで14代の当主が金座を務め、明治新政府に金座が接収されるまで代々小判を作り続けました。

 

慶長大判の製造工程と御金蔵(おかねぐら)

大判の製造を行っていた部門を『大判座(判金座)』と言います

天正大判および慶長大判は判金師らが自宅で延金とした判金を後藤役所が検定して、極印および墨判を行う「手前吹」形式でした。その後の元禄大判の製造から、幕府の指示により職人を大判座吹所に集めて鋳造を行う「直吹」方式となりました。

初代座主は、後藤四郎兵衛家の五代目当主・後藤徳乗。豊臣秀吉に命じられ、天正大判を手掛けていた人です。大判座は、以降も後藤四郎兵衛家の当主が代々その座主を務めています。

大判を製造するのは「大判座(おおばんざ)」と呼ばれる専門の部門でした。小判を製造する「金座」、一分銀などを製造する「銀座」と違い、常設のものではなく、大判製造の際の臨時に開設される部門でした。

▲「金吹方之図 上巻」より、厳重な身体検査を受ける職人たちの様子

金の比率を抑えて幕府の財政状況を好転させる場合、または使用しているうちに摩耗してしまったなどの理由で貨幣を新しくする「吹替(ふきかえ)」が、江戸時代を通じて何度か行われました。

大判の吹替えが行われる際は特に厳しいルールがありました。

後藤家当主は麻のはかまで勘定所に出頭し、勘定奉行宛の法度書に誓詞血判を行いました。手代、職人らも血判起請文を作成しました。

製造期間中に職人らには鑑札が交付され、職人が吹所に出入りする際は裸体にされた上に後藤手代と勘定衆により厳重な身体検査を受けました。

まず最初に地金を炉で溶かし、天秤で厳しく重量を測ります。

次に判金師(ばんきんし)が規定の品位に調整された金の合金を槌(つち)で打ち延し、判金を準備します。

▲「金吹方之図 上巻」より、小判の槌目を打っているところの様子

この工程はほぼ小判の製造と同じですが、仕上がった判金は「色あげ」という表面の処理がなされます。

この色あげとは、6種類の特殊な薬品を表面に塗って炭火で焼いたあと、塩をつけてこすり水洗いを行うというものだそうです。この作業を何度か繰り返すと、表面から銀だけが取り除かれ、黄金色に輝きます。

そして最後に検定の「極印(こくいん・きょくいん)」が打たれた後、墨書きを行なって完成です。

▲「金吹方之図 上巻」より、小判に極印を打っているところの様子

完成した大判は掛目(かけめ・重量のこと)を厳しく確認した上で箱に収められて封印し、江戸城蓮池の御金蔵(おかねぐら)に上納、収蔵されました。

江戸時代の貨幣は形はそれぞれいびつですが、量目(重量)は驚くほど正確です。

墨書きが消えた場合は大判座へ持ち込み、銀三匁五分で書改め(書き直し)てもらうことができました。

文政2年(1819年)以降は金一分で書改めてもらうことができました。

江戸幕府の金庫「御金蔵(おかねぐら)」

江戸城には「奥御金蔵」と「蓮池の御金蔵」の2つの御金蔵がありました。

「奥御金蔵」は、年貢金や長崎貿易の収入など、多額の金銀が納められ、非常時用の備蓄や幕府の財政を支える重要な役割を担っていました。幕府の資金の多くが保管され、元禄時代には常に500億~800億円に相当する金額が保管されていたと推定されています。

江戸城の奥(本丸内)にあったため「奥御金蔵」と呼ばれ、開閉は勝手方老中と勘定奉行の封印と開印が必要でした。盗難防止のために厳重な警備体制が敷かれていました。

慶長大判がおさめられた「蓮池の御金蔵」は、幕府の金奉行が管理した江戸幕府の金庫で、通常流通の貨幣が収められていました。

銅の開き戸は三重の錠前、そして格子のついた窓という頑丈な造りでした。

しかしこの御金蔵にまつわる不正があり、金奉行がお役御免となり追放される事件も起こっています。


▲慶長大判の裏面(オークションワールド社「貨幣博物館」より)

 

慶長大判の種類

慶長大判には通常の慶長大判と墨書の花押が笹の葉のように見える「慶長笹書大判(けいちょうささがきおおばん)」と「明暦大判(めいれきおおばん)」という3種類があります。

▲慶長笹書大判(オークションワールド社「貨幣博物館」より)

慶長笹書大判とは

表面の墨書きが後藤四郎兵衛家五代徳乗の実弟長乗によるもので、花押が笹の葉のように流れているものが笹書大判と呼ばれます。

明暦大判とは

1657年(明暦3年)の「明暦の大火」と呼ばれる江戸の大火で焼損した金銀を用いて製造されたものをいいます。1658年(明暦4年)の発行です。

▲明暦大判(オークションワールド社「貨幣博物館」より)

「明暦の大火」は江戸の街の大半を焼き、幕府の御金蔵も被害を受けました。

その際に火災で溶けた金銀を鋳造し直す必要が生じ、製造し直された大判が「明暦大判」と呼ばれています。

品位はAu673・Sv 280・他47と、他の慶長大判よりも品位が低いのが特徴です。


いかがでしたか?
日本を代表する大型金貨の中から「慶長大判」のご紹介でした。
徳川時代の幕開けを飾るに相応しい豪華絢爛な大判。その後は幕府の体制も変わり、金の品位も落ちていきました。
たくさんの種類がある大判の中でもコレクションするに相応しい1枚です。


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