江戸時代、貨幣は誰が、どのように作っていたのか?(下)
金座の様子を描いた絵は、結構、今に残されている。
国立国会図書館や
日銀の貨幣博物館が所蔵する『金座絵巻』などもある。
金を扱い、小判を鋳造する工程は極秘である。
真似をすれば、贋金も創れるのである。
そんな機密を詳細に絵で表したり、絵で残しても
エエのか?
という素朴な疑念も浮かぶのである。
金座の様子を描いた絵巻が残っている理由は、
例えば、佐渡の金山などに赴任する
新任お奉行様への職務説明の解説書になるのである。
或いは、奉行の任を終えて帰る
退任お奉行様へのお土産にもなったのである。
小判は、どのようにして作らるるのか?
小判と縁遠くなった現代人でも、
興味津々なのである。
小判が出来るまで
江戸時代、10種の小判が創られた。
いずれも金貨であるが、
純金ではなく、金と銀の合金である。
貨幣経済を統制するお上には、
大事なお役目や利権、役得、そして目論見がある。
小判1枚に使用する金の量を減らし、
発行枚数を増やすことも出来るのである。
限りある資源を大切に、である。
小判10種の金濃度は、時代により
56〜87%の間で推移したのであるが、
量だけでなく、大きさも変動いたしたのである。
原料の金銀は、
佐渡などの金山から掘り出された「山出し金銀」であるが、
古金貨や、輸入金銀なども御用済みして溶解し用いたのである。
原料の金に硫黄等を加えて精錬し、
焼金(やきがね)とし、棹金(さおきん)にして、
打ち延ばして延金(のべがね)にする。
この延べ棒を作業場である
槌目場(つちめば)、端打場(はたうちば)で
小判形に整えていくのである。
一連の検査に合格すると、
桐の極印が打刻され、
定法成金(じょうほうなりきん)と認められて、
更に細かな細工が施されていく。
裏面の中央に「花押」極印、
左下端に棟梁の小験極印、
その上に金座人の小験極印、
上部左右いずれかに造られた元号などを表す
文字の極印が打刻され、ようやく青小判の完成である。
後藤家の最終的な検査に合格すると、
表面の上下端に「桐」、
中央の上部に「壱両」、
下部に名判(なはん)「光次」と
その花押の極印が打たれて、
真新しい小判が、世に生まれ出るのである。
小判が金ピカの理由
金は、海の底深くに沈む海賊船の樽の中であろうが、
山奥の地下深くに隠され埋もれた甕の中であろうが、
酸化せず、腐食もせず、全く変化しない金属なのである。
銀や銅などとは異なり、どのような自然環境の中でも、
何百年、何千年と放置されても、
金は、ずっとその黄金色の輝きを、
その美しさを、保ち続けるのである。
さて、金貨である小判なのであるが、
実際に金濃度56%の金銀合金を作った御人がいる。
すると、かなり白っぽい金属になるのである。
なのに、現存する小判は、いずれも金色に見える。
これは何故か?
小判を創る工程の最後に
「色付け」「色揚げ」
という作業が行われていたからなのである。
この作業には金座の企業秘密であった6種の薬品を用いる。
この薬品、分かっているのは、
食塩、焔硝、丹礬、緑礬、薫陸などである。
これら調合の秘薬「色付薬」を
小判の表面に塗り、炭火で焼く。
焼いた後、食塩の入った桶の中、
切薬(きりぐすり)という妙薬で磨き落とし、
塩摺(しおずり)を数回繰り返す水洗いを行うのである。
すると、あら不思議、これら化学反応や労力により、
表面から銀だけが溶けて取り除かれ、金だけが残るのである。
現在、小判を化学分析してみると、
10マイクロメートル(μm)以下の厚さの部分で
銀が除かれておることが、判るのである。
10μm(マイクロメートル)とは、
0.01mmであり、0.001cmである。
最表面では、金がほぼ100%近くにまで
なっているのである。
とんでもなく薄い表面での化学処理なのである。
金ピカ小判は、このような
当時最先端の処理技術によって作られていたのである。
小判の保管場所
このようにして出来上がった
色小判は、後藤役所の役人に渡されるのである。
最終検査に合格した小判は、
百両単位で和紙に包み、封印される。
この包は、後藤包(金座包)と呼ばれるモノで、
小判は百両包、一分金は五十両包が主であった。
なお、量目不足で、
検査に合格しなかった小判たちは「軽小判」と呼ぶ。
これら規定外の可哀想な小判たちには、
打込(うちこみ)という新たな職人の手作業が施され、
金目を補って復活させたのである。
形態のよくない小判も、
吹所に戻され、極印面を避けながら整形されるのである。
この作業は端打(はしうち)と呼ばれ、
お色直しを終えた小判は、やや幅広となって甦るのである。
いずれの小判も、
嫁ぎ先は、警備頑強な江戸城内の勘定所なのである。
コインについて
今回ご紹介するコインは宝永小判である。
乾字小判(けんじこばん)とも呼ばれている。
生み出したのは、勘定奉行・荻原重秀。
「幕府に信用があれば、発行する通貨は、
瓦礫であっても通用する」
信用通貨の概念を逸早く理解実践した人物である。
綱吉の御側用人・柳沢吉保の信任を得て、
江戸幕府開府以来初めての貨幣改鋳、
金の含有量を減らした元禄小判を生み出していた。
この改鋳で、およそ2枚の慶長小判で
3枚の元禄小判が生まれたのである。
だが、良質な貨幣を求める家宣の側近
新井白石と対立、
白石の意見を聞き、金の比率を高めて新たに作られたのが、
この宝永小判なのである。
宝永小判の中には、
佐渡の金座で鋳造され、「佐」の極印が打たれた
佐渡小判が現存する。
極めて希少であり、小判の中でも
高値での取引が続いているのである。
小判とは、正に「宝」「永」なのである。
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