一攫千金の夢!宝くじの歴史

10億円貰うのも夢じゃない

平成27年の「年末ジャンボ宝くじ」
1等7億円と前後賞が各1億5,000万円で
賞金額が10億円になった。

1枚300円を3枚買って900円、
それが見事当たれば、
1,000,000,000円になるのである。

とんでもない話である。

当たりもしないのに、
当ったらどうしようかと、
嬉しく思い悩むのが我々凡人である。

転がり込んで来た大金を、どう使おうか、
何に浪費しようかと、
来てもくれないお金で、人間誰しもニヤニヤ
夢が膨らむのである。

金銭欲、物欲、射幸心は、
凡人でなくても果てしないのである。

宝くじの歴史

「宝くじ」という呼び名が生まれたのは、
1945年(昭和20年)である。

この年の7月に売り出された「勝札」だが、
抽選日の8月を待たずに終戦になり、
「負札」と異名をとる籤(くじ)が始まりである。

160604_013ヶ月後の10月に、負のイメージを払拭し、
装いも新たに「宝籤」と名称を変えて
「宝くじ」は登場したのである。

160604_02この時のくじの値段は、
1枚10円で、1等賞金は10万円である。

企業物価指数で計算すると、
今のお金で1枚2000円ほど、
2000万円くらいの当選金ということになる。

ちなみに、それ以前の宝くじの歴史を辿れば、
戦国時代の終わり頃にルーツがある。

大阪府箕面市にある瀧安寺が、
正統な発祥の地として認められているのである。

160604_03この瀧安寺の「箕面富」の当たりは、
世俗の塵に塗れたお金ではない。
非常にありがたい本尊弁財天の特別御守である。

この当たりの「大福御守」には強いご利益があり、
多くの人々が、この「福富」を求めたのである。

富くじの始まり

もともと富籤は、頼母子講や無尽講といった
民間相互扶助の共済システムから生まれた。

それ以前には、各地の神社や寺院へ参拝するため、
代表を選ぶ「代参講」が盛んであった。

それが、信仰から離れ、参拝に行くのではなく
籤や入札で当選者を決めて、講の構成員に融通する
頼母子講や無尽講などが出来たのである。

160604_04参加者は少額の掛け金を出し合い、
当選順番が遅れるだけで、全員が当選者になって
その「講」は解散である。

まとまったお金が入る時期がわかれば、
急な出費も貧乏なその日暮らしも
夢と希望で何とか乗り切れる。

金を借りて当然発生する利息もない。
個人負担の少ない少額の出資で、
庶民金融の手段として、
講は発展していったのである。

それが、あくどく狡賢い連中輩たちの収奪や
賭博の道具になった。

度々、お上から禁止を受けたが、寺社普請の名目で、
公認で富札を売り出すことが許されたのである。

お坊さんが、長い錐を木箱の中に突き刺す姿、
当時の実況を表す絵が残っている。

160604_05当時の抽選会のルールや、やり方は至極簡単である。
同じ数の番号を記した木札を用意し、
それを大きな箱の中に入れてかき混ぜる。

穴から錐を突き刺し、
引き上げた札で当せん番号が決まるのだ。

160604_06

160604_07この一般公開の「富くじ抽選会」のライブ模様から、
「富くじ」は「富突き」とも呼ばれたのだ。

幾らで夢を買うか

今の宝くじでも、買った分の金を、
突き返してくるような少額当選金もあるが、
これは元返(もとがえし)といって、
富突き当時から続く、きめの細かい
お心遣いのシステムである。

籤1枚の値段は、
時代や場所によって違うが、1分か2分で、
盛況だった文化・文政期で2朱が相場であった。

1両を、年代や当時の物価無視で単純に
現代の10万円と捉えると、
1分は4分の1の2万5000円。
1朱は16分の1の6,250円、
富くじ1枚、とんでもなく高額である。

なので、庶民は一枚の富くじを数名で買う
「割り札」で籤と夢を買った。

160604_08もっと手軽に「陰富」という違法くじを
1文で買って、お縄になるかもしれない
スリルも楽しんでいたのである。

160604_09富くじは、寺社普請の大義名分で、
天下御免の「御免富」であったが、
幕末の天保の改革(1842年)で、また禁止され、
明治新政府も引き継ぎ、富くじを厳しく禁じた。

なので、昭和の「宝くじ」誕生まで、実に103年もの間、
日本には富くじのないブランクがあったのである。

ところで、この「富くじ」、現代の刑法の中に
「賭博及び富くじに関する罪」という法律・条文がある。
「富くじ」は、今も死語ではないのである。

胴元は儲かる

十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』の中に
座摩(いかすり)宮の当たり百両の富くじを拾った
弥次郎兵衛と喜多八の話がある。

当たりは百両で、当選金を払う神職が、
寄進に十両、御祝儀で五両、新富札の購入に五両、
という話を持ち出す。

つまり胴元から様々な名目で寺銭の
20両を引かれて、受け取るのは80両である。

現代のスポーツ振興くじ、ナンバーズ、ロトや
競馬・競輪・競艇・オートレースなどの公営ギャンブルでは
大正時代から「パリミュチュエル方式」が採用されている。

この方式の採用により、主催者側の利益となる
一定の割合(控除率)の金銭が確保される。
主催者収入がマイナスになることはないのである。

宝くじの当選金は非課税だから
所得税・住民税はかからない。

だが、当選金を独り占めせず、
親や子や親類、知人などにエエ格好して分けると
贈与税でごっそり奪われるのである。

分けたい相手が、もしもいれば、
「割り札」(共同購入した宝くじ)として、
名義人全員で1人1人受け取るのが良いのである。

コインについて

正徳小判

正徳小判

 

今回ご紹介する小判は、正徳小判である。
武蔵小判(むさしこばん)とも呼ぶ。

1714年(正徳4年)に新井白石の提言により
最初の小判・慶長金銀と同品位に引き上げられた小判である。

白石は、金銀貨の品位や量目低下は、
公儀の威信の低下に連動すると力説したのである。

翌年には更に小判の品位を引き上げた享保小判が登場する。
この2つの改鋳で生まれた小判は、
江戸時代を通じ、金銀の品位を上げた唯一の事例なのである。

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