ローマ建国を称えた古代のコイン:『現代まで残る古代のコイン』シリーズ
古代ローマのシンボルとして最も親しまれてきたのが、
雌オオカミが幼いロムルスとレムスに乳を与えるシーンです。
元を辿れば、
この出来事がローマの誕生のきっかけになったのです(少なくとも伝説上では)。
ローマ建国者となるこの双子は、
荒れ地でたった一匹の雌オオカミに育てられながら、
波乱万丈な幼少期を乗り越えます。
ローマの歴史家リウィウスが著した有名な神話によると、
ローマが建国されたのはテベレ川の土手、
つまり、双子が漂着しその後育てられたその場所でした。
双子が、のちにローマとなる都市の建設に着手した際、
レムスは都市を“レムリア”と名付けたいと考え、
ロムルスは“ローマ”がいいと主張し、
さらには、どちらが新都市の王に相応しいかをめぐって口論になりました。
一説によると、双子は森の神に決断を委ねます。
神の占いの結果はふたつに分かれ、争いが起こり、
その時レムスが殺されたといいます。
ほかに古くから語り継がれている説では、
建設途中だった新都市の境界の壁を、
レムスが飛び越えて馬鹿にしたため、
ロムルスは復讐のためにレムスを殺したという話もあります。
“雌オオカミと双子”の描写
“雌オオカミと双子”が描かれたデザインは、
ローマの双子の建国者を称えたもので、
ローマ美術の中で重要な役割を担っています。
コイン上でも幾度となく登場し、注目を集めていますが、
おそらく、人々が思っているほど数は多くありません。
このデザインをあしらったコインのほとんどは、
ローマおよび帝国本土の他の鋳造所で鋳造されたものですが、
他にも、バルカン半島、小アジア(アナトリア半島)、シリアなど、
ローマの支配下にあった属州の様々な地域の鋳造所で発行されたコインも非常に多くあります。
臨時通貨の発行時には、
シチリア島、ユダヤ(パレスチナ南部)、エジプトで鋳造されたことさえありました。
最初にこのデザインが使用されたのは、共和制ローマ時代のディドラクマ銀貨でした。
その多くがBC(紀元前)約275年~BC 約255年に発行されたものです。
この銀貨が鋳造された当時、ローマ人が発行していた銀貨はごく僅かしかありませんでした。
多くの学者たちは、この銀貨不足という問題が、
第一次ポエニ戦争(BC 264年~BC 241年)につながったと考えています。
表面には若きヘラクレス(ギリシャ神話の英雄)の肖像が、
裏面には“雌オオカミと双子”が描かれています。
次にこのモチーフが登場したのは、セクスタンス銅貨です。
片面全体にデザインされ、ほとんどがBC約217年~BC 約215年に発行されたものです。
この銅貨の表面には、“雌オオカミと双子”のモチーフがあしらわれており、
これがその後のデザインの原型となっています。
裏面にはくちばしに一輪の花をくわえた鷲が描かれています。
デナリウス銀貨への登場
その後共和制ローマ時代に2度、
このデザインが大々的に登場しましたが、どちらもデナリウス銀貨でした。
いずれも裏面が“雌オオカミと双子”のモチーフに、
表面が兜(かぶと)を被った女神ローマ(都市ローマの守護神)の肖像になっています。
1度目の登場(BC約137年に鋳造)では、
“雌オオカミと双子”のモチーフは、ローマ建国神話のなかでも重要なテーマとして描かれています。
3羽の鳥がとまったイチジクの木の下に登場し、羊飼いに率いられています。
こういった描写はすべて、
パラティーノの丘のふもとでの双子が発見された時の情景を詳しく描いたものです。
そして、2度目にデナリウス銀貨にこのデザインが登場した時は(BC約115年~BC約114年)、
“雌オオカミと双子”のモチーフは、
メインデザインの女神ローマの足元に、補助的なデザインとして描かれていました。
そこでは、女神ローマは積み重なった盾の山の上に腰かけています。
占いの儀式の象徴である、ワタリガラスと思われる2羽の鳥を引き連れています。
次にこのモチーフが使われるのは、それから2世紀近くも先のことです。
“雌オオカミと双子”は、紀元後(AD)77年~78年のコインの裏面に使用されました。
タイタス(ティトゥス)帝のデナリウス銀貨と、
ドミティアヌス帝のアウレウス金貨です。
彼ら兄弟は最終的に皇帝となりましたが、
鋳造された当時はまだ、副帝(カエサル)の称号を保持していた時でした。
この時代に発行されたコインの中には、
“雌オオカミと双子”のモチーフの下の方にボートが描かれているものもあります。
この描写は、テベレ川の岸に無事たどり着いたときに双子が入っていた
“ゆりかご”を暗示しているのかもしれません。
2世紀の半ばころには、ハドリアヌス帝(117年~138年)が発行したコインと、
アントニヌス・ピウス帝(138年~161年)が発行したコインの裏面に、
“雌オオカミと双子”のモチーフが多く使用されました。
後者のピウス帝は、148年がローマ創設900周年であることを記念して、
(初期ローマの伝説にまつわる他のデザインと共に)このモチーフを使用しました。
ピウス帝のコインには、
“雌オオカミと双子”のモチーフがほら穴や洞窟の中に描かれているものが多くみられます。
この描写が、雌オオカミが双子に乳を与えた場所といわれる
“パラティーノの丘の洞窟”の象徴であることは、ほぼ間違いありません。
最後にこのテーマを採用したコイン
それから1世紀ほど後、ピリップス1世(244年~249年)の即位時、
ローマでは創設1000年を祝おうとしている時でした。
“雌オオカミと双子”のモチーフはこの記念イベントの一環として、
皇帝のコインの裏面に登場しました。
その当時、ローマはかなり勢力を失っていて、
めでたいことは他にほとんど無いような状況でした。
軍が無法状態で混乱していたのと時を同じくして、
ガリエヌス帝(253年~268年)、クラウディウス(ゴティクス)2世(268年~270年)、
アウレリアヌス帝(270年~275年)、プロブス帝(276年~282年)の
銀メッキのコインに“雌オオカミと双子”のデザインが使われました
――いずれの場合も、おそらくローマ建国初期を懐かしむ風潮があったからだと考えられます。
3世紀のさらに後になってからは、
このデザインは、無法国家を成立させた反逆者たち――マクセンティウス帝(307年~312年)、
カラウシウス帝(286年または287年~293年)――によって使用されました。
彼らはローマ帝国の過去の栄光を物語るデザインをふんだんに使いましたが、
それは新しい支配者として生き残れるチャンスを少しでも増やせるように、
民衆の心を揺さぶりたかったからに違いありません。
“大帝”コンスタンティヌス1世(307年~337年)の統治時の後期になると、
“雌オオカミと双子”のデザインは再び使用されました。
このとき、330年に東の首都としてコンスタンティノープルを建設したので、
都市ローマに特別な思いを込めてモチーフを使用したのです。
330年から、
コンスタンティヌス1世は2つの首都を称えて膨大な数の小銅貨を発行しました。
この銅貨は、ローマに敬意を表し、
兜をがぶった女神ローマと“雌オオカミと双子”のモチーフがペアになっています。
347年ごろになると、ローマ建国から1,100周年を祝う準備の中、
コンスタンティヌス1世の息子の指示により、
ローマの鋳造所から同様のデザインを使用した青銅貨が発行されました。
ヨーロッパ古代史上、
最後にこの象徴的なデザインを大々的に使用したのは、
“野蛮な民”とされた東ゴート族でした。
東ゴート族は476年にローマ人からイタリア半島を奪取し実権を握りました。
5世紀後半~6世紀前半には、
彼らによって厚みのある大きめの銅貨が発行されました。
この銅貨はコンスタンティヌス1世時代の有名なデザインをまねたもので、
兜を被った女神ローマと“雌オオカミと双子”のモチーフがペアになっています。
ニュース元:
http://www.coinworld.com/news/world-coins/2016/01/Honoring-romes-founding-on-coins.html
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