世界を制した空の女王の最後

飛行船の成功

皆さんは、海外など距離の遠いところに旅行に行くとき、
どんな乗り物に乗って出かけるだろうか?

ほとんど全員が「飛行機」と答えるだろう。
当たり前の話と思われるかもしれない。

ところが、今から約80年前の1920~30年代には、それが当たり前ではなかった。
飛行機よりも乗り心地が良く、広く、長距離を飛べ、何よりも安全な乗り物が存在したのである。
それは「飛行船」である。

 

フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵

フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵

飛行船の歴史は、
1852年、フランスのアンリ・ジファールによって
蒸気機関をつけた飛行船の試験飛行が成功したことに始まる。

1891年には、
ドイツのフェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵が飛行船の開発に乗り出し、
1911年にはドイツ国内民間航路が開設される。

1924年にはスウェーデンの首都ストックホルムから南アフリカケープタウンを飛ぶ大陸縦断航路が開設され、
1925年には上海から霞ヶ浦を経てサンフランシスコにまで到達する太平洋横断航路が開設された。

 

世界を制した空の女王

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このような数々の飛行船の成功の中でも、
特にツェッペリン伯爵による「ツェッペリン飛行船」は、その大成功によって世界的に飛行船の代名詞となった。

1928年、
ツェッペリン社は持てる技術の総力を結集し、先進的な飛行船を完成させる。
ツェッペリン伯爵の名を冠した「グラーフ・ツェッペリン号」である。

グラーフ・ツェッペリン号は、
全長235m航続距離1万kmという、空前絶後の超弩級飛行船であり、
その全長は実に現代のジャンボジェット機(ボーイング747)の約3倍にも及ぶものであった。
もちろん、当時世界最大の飛行船だ。

そして翌1929年、
グラーフ・ツェッペリン号はアメリカのニュージャージー州レイクハーストを飛び立ち、
日本の霞ヶ浦、ロサンゼルスなどを経て、ついに世界一周を成功させる。

3万2790キロ、約3週間の旅であった。

このころ飛行機はといえば、
グラーフ・ツェッペリン号の世界一周成功のわずか2年前、
1927年に、チャールズ・リンドバーグによってやっと大西洋単独無着陸飛行を成功させたばかりであった。

当時の飛行機はまだ技術的に完成されておらず、問題も多かった。
まだ性能の悪い非力なエンジンで飛んでいるので乗り心地も悪く、飛ばせる重量が限られていたので狭かった。
しかもエンジントラブルは日常茶飯事で、一度故障すればそれは即、命の危険につながった。

これに対して飛行船は、
基本的に飛んでいるのではなく「浮いている」ため、揺れが少なく乗り心地が良い。
さらに、とある飛行船には、客には座席ではなくベッドが備わった個室が用意され、50人以上を収容できる食堂や、
なんと郵便局まであったというのであるからその広さは想像を絶するものである。
また、たとえ故障しても飛行機と違いゆっくり落ちるので、安全性も高いと考えられていた。

この当時、まさに飛行船の歴史は絶頂の極みにあった。
人々は、飛行船を「空の女王」ともてはやした。

誰もが飛行船で長距離旅行する未来を夢見ていた。
速度が遅いことと運賃が高いことを除けば、
飛行船は安心して快適な「空の旅」を実現させてくれる、ほぼ唯一の、夢の様な交通手段だったのである。
(後述する「ヒンデンブルク号」の速度は約時速130キロ、運賃はドイツ-アメリカ間の片道運賃で、現在の貨幣価値にして400万円もした)

しかし、
「空の女王」の輝かしい歴史は、突如として幕を閉じることになる。

 

空の女王の最後

炎上するヒンデンブルク号

炎上するヒンデンブルク号

グラーフ・ツェッペリン号を制作したツェッペリン社は、
1936年、巨大な新型飛行船を完成させた。
LZ 129、「ヒンデンブルク号」である。

全長はグラーフ・ツェッペリン号を上回る245 m。
この巨体は、飛行船はおろか飛行機も含め、現在までに作られたあらゆる飛行機械の中で最も巨大なものだ。

ヒンデンブルク号は、
構造材としてジュラルミンが使われるなど、当時の最先端技術の集大成というべき飛行船であった。

それだけでなく、広いラウンジとダイニングルームを備えるなど、
「史上最も贅沢な航空機」と言われた。
乗り心地も最高で、乗客は誰一人として乗り物酔いにかかることがなかったという。

このころ、
「グラーフ・ツェッペリン号」「ヒンデンブルク号」という二人の巨人を有するツェッペリン社は、
ナチスドイツによって国有化されていた。
これが後にヒンデンブルク号の悲劇を生む原因となる。

言うまでもなく飛行船は、浮揚ガスを船体に貯めることによって浮いて飛行する。
当時、飛行船の浮揚ガスには水素もしくはヘリウムが用いられた。
水素は安価に調達できるが、可燃性があり、爆発・炎上の危険性があった。
これに対してヘリウムは不活性で安全だが、とても高価で、当時アメリカが事実上唯一の輸出国であった。

ヒンデンブルク号は、1937年5月、ドイツのフランクフルトからアメリカのニュージャージーに飛行した。
しかし、浮揚ガスにヘリウムを使おうとしたところ、
ナチスドイツによるヒンデンブルク号の軍事転用を恐れたアメリカは、ヘリウムの供給を拒否。
ヒンデンブルク号は仕方なく、危険な水素ガスを船体いっぱいに溜め込んで、ニュージャージーに赴いた。

そして、ヒンデンブルク号がレークハースト海軍航空基地に着陸しようとしたまさにその時、
突然、船尾付近から小さな炎が上がったかと思うと、それは水素ガスに引火し、大爆発。

245 mの巨体は瞬く間に炎に飲み込まれ、
ヒンデンブルク号の勇姿を収めようと集まった多くの報道カメラマンの目の前で、巨大な火の玉となって墜落したのである。

乗客・乗員合わせて死者36名、重傷者62名という大惨事となってしまった。

最初に小さな炎がついてから爆発・炎上し燃え尽きるまで、わずか35秒だったという。

この大惨事は、
現場に居合わせた多くの報道カメラマンによって写真に収められ、
人々に「飛行船は危険なもの」という恐怖を植え付けることになってしまった。

こうして、世界を制した「空の女王」の輝かしい歴史は幕を閉じた。

 

コインについて

1930年 ワイマール共和国 ツェッペリン号記念硬貨 3マルク

1930年 ワイマール共和国 ツェッペリン号記念硬貨 3マルク

今回ご紹介するコインは、
栄光と悲劇に彩られた「空の女王」グラーフ・ツェッペリン号の記念硬貨である。

このコインは1929年にグラーフ・ツェッペリン号が世界一周を成功させたことを記念して、
1930年に発行された3マルク硬貨で、まさに「空の女王」が絶頂期にあったころのもの。

地球を背景に悠然と飛行するグラーフ・ツェッペリン号の勇姿は、当時の人々が飛行船に対して抱いた大空の夢そのもののようだ。

このコインが発行された1930年には、
ドイツはまだワイマール共和国施政下であり、ツェッペリン社はナチスの支配下に入っていない。

この頃「空の女王」グラーフ・ツェッペリン号が抱いた未来への夢は、
皮肉にもワイマール共和国がわずか15年しか存続せず、結果としてこのコインが大変希少価値の高いものとなってしまったのと同じく、
儚く幕を閉じてしまった。

 

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