史上最もツイてない王様、ルイ16世の悲劇

フランス史上最も不運な王は誰かという質問をしたとしよう。
必ず候補に挙がってくると思われるのが
1774年に即位したブルボン朝第5代国王ルイ16世である。

彼は飛び抜けて英邁というわけではなかったが、
歴代王と比べてもとりたてて愚昧であったわけでもない。

たまたまフランス革命の時期に王位に就いており、
その対応に失敗してしまったために命を落とすことになった。

そもそもフランス革命に至る要因であった国内政治や制度の歪みも、
先代までの王が積み重ねてきた「負債」のツケであり、
彼はひとりでそれを負わされてしまったと言えよう。

就くはずのなかった王位

先代ルイ15世は祖父であり、
本来であれば父であるルイ・フェルディナン王太子が
続いて即位するはずであった。

父は敬虔で厳格であったが、
ルイ15世より先に36歳という若さで死去してしまったのだ。

まだ、後のルイ16世には兄が2人いた。
しかし、この2人も祖父が亡くなる前に夭折してしまう。

彼にしてみれば、本来回ってこないはずの王位が
本来回ってこないはずの時期に巡ってきたことになる。

改革への努力と失敗

18世紀は民衆が世論を形成するようになり、
力をつけてきた時代である。

また、先王達による戦争により、国家財政は疲弊していた。
新王には早急に政治・財政改革を行なう必要があった。

ルイ16世は改革派の臣下を登用して
数々の政治・経済改革を行なわせようとするが、
それらは特権階級の利害と対立するものであり、
強い抵抗にあって挫折してしまう。

結局何名かに改革を託すものの、
全て同様の理由で失敗に終わった。
王が強権的に押し切れなかったということもあろう。

アメリカ独立戦争に介入したのもまずかった。
宿敵イギリスに一泡吹かせることには成功したものの、
莫大な戦費のわりに得たものは少なかったのだ。
これで、国家財政はますます危機的になる。

課税を迫られた特権階級は、
新税を課すならば納税者の代表の承認が必要として三部会の招集を要求し、
王はこれを受け入れた。
三部会とは14世紀に端を発する、聖職者・貴族・平民による議会だ。

1789年の三部会

1789年の三部会

三部会でルイ16世はなんとか課税承認に持っていきたかったが、
平民は特権階級が有利になる三部会における議決方法に不満を持ち、
離脱し国民会議を設立、他の身分にも合流を呼びかけた。

ここにフランス革命が始まろうとしていた。

運命のフランス革命

王は最終的に国民会議を容認し、
ここに立憲君主制への平和的な移行がなされるかと思われた。
しかし、同時に軍を動かし、パリとヴェルサイユ周辺に待機させる。

これが弾圧のデマなどによって民衆を刺激することになった。
柔軟派の官僚が罷免されたこと、
今までの政治への不満がたまっていたこと、
諸々が要因となって市民を暴動へと誘った。

1789年7月14日、数万の民衆による、
かのバスティーユ牢獄襲撃事件が発生した。
混乱は農村部へと波及し、政治的危機は差し迫ったものとなった。

バスティーユ牢獄襲撃

バスティーユ牢獄襲撃

対応を迫られた国民議会は封建制の停止、
すなわち身分的特権の廃止を宣言し、
現代まで燦然と輝く「フランス人権宣言」を採択した。

ルイ16世は初めはこれを認めなかったが、
続々と武装市民がヴェルサイユ宮殿に向かうに至って、これを認めた。

とはいえ、国王は民衆に敵視されていたわけではなく、
彼らは要求を認めてくれた王に対し「国王万歳」を叫び、
お祭騒ぎで王と共にパリへ帰還したのだ。
王家の信望は未だ健在であった。

1791年、立憲君主制をうたう憲法が制定され、
王もこれに同意した。
これにより、ルイ16世はフランス王から「フランス人の王」となった。

しかし、ルイ16世は最大のミスを犯す。
革命の進展を望まなかったのか、
家族をつれて国外逃亡を図るも拿捕されてしまったのだ。

ヴァレンヌ逃亡事件と呼ばれるこの失敗により、
国民を見捨てたと見なされた王の信望は失墜してしまった。

これ以降、穏健な立憲君主制派は勢力を弱め、
過激派が力を強めていくことになる。
2年後、ルイ16世は家族とともに断頭台の露と消えた。

ルイ16世の処刑

ルイ16世の処刑

彼はギロチンにかけられる直前、民衆に向かい、こう叫んだ。

「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」

そして、傍らの者に告げた。

「私は私の死を作り出した者を許す。
私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」

激動の時代に押し流された王の最期であった。

コインについて

【PCGS AU58】フランス ストラスブール ルイ16世 1791年

【PCGS AU58】フランス ストラスブール ルイ16世 1791年

今回ご紹介するコインは
1791年に発行されたルイドール、すなわちルイ金貨である。

ルイは国王の名にちなみ、この金貨に単位の名称は無いが、
便宜的に1ルイと呼称していることがある。

片面はルイ16世の横顔であり、
その周囲にはLUD・XVI・D・G.・FR・ET NAV・REX とある。
これは略語をもとに戻すと
Ludovicus XVI, Dei Gratia, Franciae et Navarrae Rexというラテン語になる。

すなわち、ルイ16世、神の恩寵を受け、
フランスとナバラの王という意味である。

もう片面は中心にフランス国章を基にした紋章が刻印されている。
その真下に小さくBBとあるのは、
どこで鋳造されたかを示すミントマークというものである。
BBはストラスブールで造幣されたことを表すものだ。

周囲の文字はCHRS・REGN・VINC・IMPER 1791と打刻されている。
これも略字を用いたラテン語であり、
キリストが君臨し、征服し、統治するという意味である。
1791は鋳造年だ。

1791年といえば、ルイ16世が1791年憲法に署名して立憲君主となり、
称号が「フランス国王」から「フランス人の王」に変わった年である。

この金貨はルイ16世を「フランスの王」とラテン語で呼称しており、
彼がフランス国王として意匠となった最後に近いコインと言えるだろう。

このコインが作られた翌年、
ルイ16世の王権は停止させられ、
更にその翌年処刑されてしまうことになる。

この金貨の輝きはルイ16世の王としての最後の輝きと言えるのかもしれない。

 

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