「脅威の兵器」で敵を粉砕!アレクサンドロス大王の「後継者」セレウコス
ギリシアから発して東へ東へと遠征を続け、
一大帝国を築いたアレクサンドロス大王は若くして突然病没した。
あとに残されたのは
ギリシアからインド近辺に至るまで広がる広大な帝国であった。
その帝国の主導権を巡って
大王の配下であった将軍達がディアドコイ(後継者)を名乗って抗争を始めることになる。
セレウコスの台頭と自立
アレクサンドロス大王死後、
帝国は当初、幼い王子を後継に立てて統一を維持していた。
その摂政となっていたのがぺルディッカスという将軍である。
しかし、彼は諸将との利害関係の調整に失敗し、
反乱を引き起こしてしまう。
更に反乱鎮圧のために出兵するも
ナイル川渡河に失敗、失望した配下に暗殺されてしまう。
紀元前320年の出来事である。
この暗殺の首謀者のひとりがセレウコスだ。
その後、セレウコスは
反乱側の有力者であったアンティゴノスに与するようになり、
バビロニア地方の領有権を得て地盤を固め、
彼に協力して対立する他のディアドコイ達を撃破していった。
しかし、自分を脅かしうる有力者として
次第にアンティゴノスはセレウコスを危険視し始める。
身の危険を感じた彼はバビロニアを脱出してエジプトに逃れ、
そこを地盤にしていたプトレマイオスを頼ることにした。
2人はマケドニアを支配下においていたリュシマコスを仲間に引き入れ、
強大化したアンティゴノスに対抗することにした。
紀元前312年、
アンティゴノスは子のデメトリオスに大軍を率いさせてシナイ半島に進出する。
それに対し、プトレマイオスも軍を出して敵対する意志を見せた。
若いデメトリオスは会戦による決着を選んだ。ガザの戦いである。
しかし、経験豊富な2人の将軍は
ことごとくデメトリオスの策戦の裏をかき、その軍を大破する。
そして、
デメトリオスがアンティゴノスと合流して体勢を建て直している間に
プトレマイオスから兵を借りたセレウコスは
バビロニアを奪回することに成功した。
善政の実績があった彼は住民に歓喜の声と共に迎え入れられたという。
東征の続き
セレウコスが旧領に帰還した後、
プトレマイオスが勢力を増したこともあって
アンティゴノスの矛先はしばらくそれることとなった。
これを機に、紀元前305年彼は東征を開始した。
アレクサンドロス大王の夢の続きを受け継ぐかのようであった。
セレウコスの妻はかつてアレクサンドロス大王の混血政策で結婚した
ペルシア系であるソグド人女性アパマである。
混血政策で結婚した将軍たちのほとんどはのちに離婚したが、
この夫婦は生涯連れ添い、後継者も産んだ。
支配民族であるマケドニア人第一主義から脱却できなかった
他のディアドコイとセレウコスの大きな差であり、
妻を通した東方の文化理解は東征に大きな益をもたらしたことは簡単に想像がつく。
インドに到達して出会ったのが
インド文明地方を統一したマウリヤ朝の創始者チャンドラグプタである。
圧倒的な軍事力を持つインド王との間に何があったのかは定かではない。
しかし、セレウコスがチャンドラグプタと
なんらかの友好関係を結んだのは事実のようである。
征服したインドの一部地域をマウリヤ朝に割譲し、
彼は軍を返したのだった。
アンティゴノスとの決戦
紀元前301年、プトレマイオスらと講和条約を結んだアンティゴノスが
いよいよセレウコス攻撃に専念するとの報が入る。
騎兵1万を含む総勢約8万の大軍を率いて
アンティゴノスは自ら出陣してきたのである。
セレウコスはリュシマコスと共同で迎撃することとし、
騎兵1万5千を含む総勢8万弱の陣容を整える。
両軍は小アジアで激突した。
ディアドコイ戦争最大の会戦、イプソスの戦いである。
アンティゴノス軍右翼の騎兵隊を率いるデメトリオスの突撃で戦いは始まった。
その勢いに、セレウコス・リュシマコス連合軍左翼は押され、
次第に後退していき、デメトリオスは追撃を行う。
中央では騎馬弓兵を巧みに運用したセレウコスの策戦がはまり、
次第に連合軍がアンティゴノスが率いる中央部隊を押し始めた。
しかし、ここで連合軍左翼を追い散らしたデメトリオスの騎兵隊が戻ってくれば、
挟み打ちとなり、アンティゴノス軍の勝利となるはずであった。
やや深追いしすぎたことに気づいたデメトリオスは軍を反転させ、父のもとに急いだ。
だが、その前に文字通り巨大な壁が立ちふさがった。
その数、数百にも及ぶ戦象部隊である。
従来のギリシア人の戦争では考えられない規模の
この戦象部隊はあのチャンドラグプタの後援によるものであった。
デメトリオスはアンティゴノスとの合流を妨げられた。
アンティゴノスは息子の来援を期待し、踏みとどまって奮戦したが、
ついに投げ槍に指し貫かれて戦死した。
ディアドコイ戦争最大の戦いはセレウコスの勝利に終わった。
コインについて
今回ご紹介するコインはセレウコス1世が発行したテトラドラクマ銀貨である。
もともと、このテトラドラクマ銀貨はアレクサンドロス大王が存命中に発行したもので、
彼の死後も機軸通貨として後継者達によって発行され続けた。
片面にはマケドニア王室の祖先とされていたギリシャ神話の大英雄ヘラクレスが
獅子の皮をかぶっている様子が刻印されている。
この皮はヘラクレスが倒した「ネメアーの獅子」のものであり、
獅子座として知られている。
ヘラクレスの顔は実はアレクサンドロス大王自身を暗示しているともされる。
西欧において自身の顔をコインに載せた初の事例であるとも言えよう。
もう片面ではギリシア神話の主神ゼウスが椅子に座っている。
アレクサンドロス大王は自分の実の父親はゼウスであると
常々主張していたことからこのデザインとなったのだろう。
ゼウスの下と右側にあるギリシア文字をアルファベットに直すと
BASILEWS ALEXANDROUとなる。
「アレクサンドロス王」とでも訳すのが適当であろう。
セレウコスはかつての主、
アレクサンドロス大王のコインを発行し続けることで
その後継者たることを内外に示し続けた。
事実、彼は唯一の後継者に成り得る立場にいた。
残念ながら故国マケドニアに出兵する途中で裏切りによる凶刃に倒れたが、
彼の残した王国は
紀元前64年にローマの名将ポンペイウスに滅ぼされるまで続くのである。
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