「銀座」はあるけど、「金座」や「銅座」ってあるの?
銀座の謂れ
日本には「銀座」が300以上500未満はある。
大抵は、その地域の繁華街、
商店街に付いている呼び名であるが、
日本全国、あちらこちらにご当地「銀座」があるのだ。
銀貨を鋳造したり鑑定したり、
検印していた場所が、銀座の名前の由来である。
そんなに、あちらこちらで銀貨を作っていたのか?
そんな疑問が湧くのである。
江戸幕府が始まるまで、通貨、貨幣はバラバラであった。
秀吉が、銀貨を統一しようと
「常是(じょうぜ)座」という名で銀座を始めた。
家康が、銀貨の担当者に「大黒常是」という氏名を与え、
銀改役にしてから、常是は人の世襲名になった。
だから、銀貨には
「常是」「宝」の文字や大黒天像が極印されている。
金貨の小判にある「(後藤)光次」と同じ人名謂れの刻印なのだ。
江戸時代の銀座は、初めは伏見と駿府にもあった。
やがて京都と江戸に移転し、大坂と長崎に新設されもした。
だが、最終的には江戸の銀座に統一された。
そして明治になり、江戸が東京になり、
貨幣製造所・銀座のあった「新両替丁」という町も、
「銀座」という町名に変わったのである。
2度の大火を経て、銀座の街並みは
瓦斯燈や煉瓦造で整備され、超・モダンに変貌した。
そのゴージャスな変化、繁栄にあやかりたいと、
各地に「○○銀座」が登場したのである。
ちなみに、日本で初めて銀座の名前を商店街につけたのは、
東京品川区にある戸越銀座商店街である。
ホームページの中でも自慢しているのである。
金座はいずこ?
銀座があれば金座もあった。
ところが「金座」の地名は殆ど残っていない。
東京都中央区に「金座通り」と、
静岡市葵区に「金座町」がある程度なのである。
商店街では、広島に「金座街商店街」があるが、
こちらの開設は昭和になってからである。
しかも、金座の歴史とは無関係で、「銀より金」と、
信用金庫のCMみたいな謂れでのネーミングなのである。
「秋田駅前金座街」もある。
だが、こちらの金座街開設は広島よりも新しく、
戦後の復興期から昭和50年代までの歴史である。
金座の歴史
江戸時代の貨幣製造所・金座は
「小判座」や「小判所」と呼ばれていた。
江戸のほかに、京都、佐渡、駿河、甲府にもあった。
この頃は、この鋳造所ではなく、
許可を得た「金吹き」と呼ばれる小判師が、
自宅で原判の鋳造していた。
この原判金は、御金改役・後藤庄三郎光次の屋敷で検定され、
極印を打たれて、初めて貨幣として認められたのである。
やがて元禄の頃に
江戸本郷の大根畑に吹所(鋳造所)が設置され、
小判師たちは全て江戸に集められた。
勘定奉行の支配下にあって、大判を除く、
金貨(小判および一分金)の鋳造、地金類の買収、
鑑定や監察など、独占的に請け負う組織として一元化されたのである。
だが、この本郷の鋳造所は数年で閉鎖され、引き続き、
金座の長、後藤家の屋敷内で金貨の全てを担うことになった。
原判金の鋳造や検定・極印打ちの作業といった
金貨鋳造に関わるほかに、通貨の発行という
現在の中央銀行業務に相当する役割も
後藤家屋敷に集約されたのである。
やがて、明治維新を迎えて金座が廃止された後、
この屋敷の跡地には、日本銀行本店が設置された。
すなわち、日本銀行の本店建物は、
まさに江戸時代の「金座」跡に建っているのである。
そしてもう1つの金座、
静岡市葵区の「金座町」の駿河金座跡地には、
日本銀行静岡支店(葵区金座町)が建っている。
しかし、こちらの営業所、
金座町に移転したのは昭和47年(1972年)からである。
所謂「古巣に戻った」なのである。
銭座はあるのか?
江戸時代は金銀銅の3貨であるから、
銀座と金座があれば、銅貨(銅銭)を作る
「銅座」というのがあっても可笑しくない。
だが、「銅座」はあったし、地名としても残ってはいるが、
銅貨との関わりは薄いのである。
銅座は、銅貨ではなく、
銅の鋳造(鋳銅)を行った場所を表していたのだ。
長崎と大坂(大阪)に置かれて、長崎には
「銅座町」という地名が残っている。
大阪には旧銅座役所所在地(大阪市中央区)周辺に
幼稚園と公園の名前で残っている。
銅貨を鋳造する座は「銅座」ではなく、
「銭座」と呼ばれていた。
銭座は江戸時代、日本各地に存在した。
それが謂れの地名は、静岡市葵区の銭座町や、
長崎県長崎市の銭座町などがある。
銅貨(寛永通宝)製造所であった銭座は、
公募で民間が請け負った。
硬貨不足が生じるなどで、
必要に応じてその都度、様々な場所で開かれたのだ。
その中で最多の鋳造をし、規模も最大だったのは、
亀戸銭座(江東区亀戸2丁目)である。
やがて鋳銭事業は、公募ではなく
金座および銀座が兼任することになった。
幕末に流通した天保通寳は、
金座主導により鋳造された。
なので、この天保通寳の裏側には、小判と同じく
金座の後藤庄三郎光次の花押が鋳出されてあるのだ。
コインについて
今回ご紹介する小判は、元禄小判である。
江戸時代の金貨として、慶長小判の次に生まれた。
元禄5代将軍綱吉の代に入って、
市場に流通する慶長小判は、
90年以上の長きにわたり流通したことになった。
磨耗、破損が著しく、切れ、軽め金などが大半を占め、
修繕を必要とするものが多くなっていたのである。
そこで、勘定吟味役の荻原重秀が、
貨幣改鋳を行い、新たな小判が生まれた。
それが、この元禄小判である。
改鋳にあたっては、その秘密保持の観点などから、
自宅家業である【手前吹】であった貨幣鋳造方式を改め、
江戸本郷に新設した吹所に金座人および銀座人を集めて行われた。
この吹所は火災により、数年で閉鎖となったが、
以後も小判師を金座に集めて鋳造を行わせる
【直吹】方式に変更するきっかけともなった小判なのである。
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