「ヨーロッパ」とは何か? カール大帝がヨーロッパ作るために行ったこと

今、イギリスのEU離脱問題で、世界中の注目がヨーロッパに集まっている。

では「ヨーロッパとは何か」、と聞かれたら、
皆さんはどのように答えるだろうか。

フランスやイギリス、ドイツといった具体的な国名を挙げる人もいるだろうし、
文化的な側面から語る人もいるだろう。
また、EUなどの政治的結びつきから話すこともできるし、
地理的な定義を述べることも可能だ。

では、そういった様々な視点から定義することのできる「ヨーロッパ」とは
歴史的にどのように概念として成立したのであろうか。

この疑問について記述するとき、避けては通れない男がいる。

その名はカール1世。

カール大帝

カール大帝

 

フランク王国カロリング朝2代目の王にして西ローマ皇帝を号した、
後の神聖ローマ皇帝の祖であり、「ヨーロッパの父」と呼ばれた人物である。

一般にシャルルマーニュ、若しくはカール大帝と呼ばれる。

西ヨーロッパの統一

768年にカール1世が父ピピン3世の死によって
弟カールマンと共にフランク王国の王位を受け継いだとき、
王国は既に現在の西ヨーロッパの半ばを占める大国であった。

771年に弟が死去すると、
カール1世は単独の王としてこの広大なフランク王国を統べることになる。

フランク王国は彼の祖父の代より、
臣下に土地を貸与して騎兵を育成させる政策を採用していた。
カール1世もそれを受け継ぎ、強大な騎兵軍団を傘下に抱えることになる。

加えて、東方ではイスラム帝国アッバース朝が全盛期を迎えており、
西洋から中華帝国に至るまでを結びつける一大商業拠点を作り上げていた。
フランク王国も商業圏のひとつとして、多くの富が流入することになった。

こうして軍事力と富の両方を手に入れたカール1世は
周辺勢力に対し、軍事侵攻を開始する。

773年、まず、ローマ教皇の救援要請に応じ、
イタリアのランゴバルド王国に進軍。
1年足らずでこれを滅亡させてしまう。

774年、現在のドイツのザクセン地方に出兵を開始。
ザクセン人との死闘は30年にわたり続くが、804年ついに征服を完了した。

778年のイベリア半島への遠征は失敗に終わるが、
バイエルン地方を服属させ、バルカン半島北部のアヴァール人居住地を破壊することに成功し、王国は拡大していった。

814年時点でのフランク王国。紫は768年時点の領土、青は獲得した領土、水色は領土ではないが勢力圏

814年時点でのフランク王国。紫は768年時点の領土、青は獲得した領土、水色は領土ではないが勢力圏

キリスト教の守護者

こうして、西ヨーロッパの大半を支配するに至ったカール1世に目をつけた人物がいた。
ローマ教皇レオ3世である。

彼はローマ教皇領及び自分自身を守る守護者としての役割を
カトリック信徒である王に期待したのであった。

教皇には秘策があった。
800年、サン・ピエトロ大聖堂で行われたキリスト聖誕祭のミサに
カール1世が出席したときにそれは実行された。

祈りを捧げて立ち上がろうとした王に
教皇が黄金の冠をかぶせ、ローマ帝国皇帝として即位させてしまったのである。

カール大帝の戴冠

カール大帝の戴冠

事前に根回しがされていたのかどうかは定かではないが、
かなり唐突な身も蓋もない戴冠式であったのは事実のようである。

ともあれ、こうして西ローマ帝国滅亡後、
空位であった西ローマ皇帝が名目上とは言え復活したのである。

軍事力、経済力といった実力に加え、
キリスト教の守護者、ローマ皇帝といった自らを正当化してくれる地位をも
カール1世は手に入れたことになる。

これ以降、この皇帝のことは
カール1世ではなくカール大帝と呼称することにしよう。

ヨーロッパ文化の父

カール大帝が「ヨーロッパの父」と呼ばれる所以は
領土的なことやローマ皇帝位だけではない。

ヨーロッパの基礎となる文化の創出が
この皇帝の膝下でなされたことがむしろ最大の要因であろう。

先にも述べたように東方でイスラム帝国が勢力を拡大していったため、
多くのキリスト教聖職者が庇護を求めてフランク王国に亡命してきた。

これを機会に大帝はフランク教会の改革を行うこととし、
綱紀粛正と正しい信仰を追求した。
信仰を深め、また神学的な探求を行うには
古代ローマの聖職者や哲学者の著作が不可欠である。

そのため、多くの写本が蒐集され、また生産が行われた。
古代ローマ帝国に生きたタキトゥスの『ゲルマーニア』などは
このときつくられた写本1点のみが現存してくれたおかげで、今に伝わるのだ。

写本製作の際に使われた文字が、このとき新しくつくられた「カロリング小文字体」である。

それまでのアルファベットには大文字しかなく、
書き方も複雑にした筆記体のようなものが主流で、
更に単語間に余白が無く、どこが切れ目なのかわかりにくいため、
教育を受けていないと読むのが困難であった。

これを新文字体は読みやすく、正確に綴りやすく一新したのである。
この文字体は西ヨーロッパ全土に普及し、知識向上に寄与した。
そして、はるか後のルネサンス期に復興され、近代の書体の基本となるのである。

カロリング小文字体で書かれた聖書の1頁

カロリング小文字体で書かれた聖書の1頁

こうして、古代ローマ・ゲルマン文化・キリスト教を融合するような文化が創られることとなり、
現代に続くヨーロッパの精神文化の基礎ができあがったのである。

コインについて

今回ご紹介するコインは
1570年に神聖ローマ帝国で鋳造されたターレル銀貨だ。

神聖ローマ帝国 アーヘン カール大帝 ターレル銀貨 1570年

神聖ローマ帝国 アーヘン カール大帝 ターレル銀貨 1570年

 

ターレル銀貨とは16世紀から近代に至るまでヨーロッパ中で流通していた大型銀貨の総称である。

片面には玉座に座るカール大帝が刻印されている。
彼は王権の象徴たる王笏と、キリストの名の下に世界を支配する権限の証である宝珠を持つ。
このふたつは組み合わせて描写されることが多いようだ。

足元に描かれている盾の中には鷲が描かれているようだ。
鷲の紋章は古代ローマ帝国の紋章であり、
その後継者とされたカール大帝に敬意を表したものかもしれない。

もう片面は王冠を戴いた双頭の鷲の紋章が描かれている。
双頭の鷲は神聖ローマ帝国及びハプスブルク家の紋章として有名である。
このコインが発行された当時の神聖ローマ皇帝は
ハプスブルク家のマクシミリアン2世でだ。

中世を抜け、近世に入るころになると、
ヨーロッパの産業は発展を見せ、商業圏は拡大して国際的な取引が盛んになる。

そんな中で生まれたのがこのターレル銀貨であり、
重さと銀の含有率を統一しつつ各国で多様な刻印がなされたものが発行された。

ターレル銀貨はヨーロッパがひとつの商業圏として一体となった証とも言え、
「ヨーロッパの父」カール大帝が描かれるにふさわしいコインと言えるだろう。

 

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