ヨーロッパ最強の「母」、マリア・テレジアの生涯

1741年9月、とある美しく若い女性がハンガリー議会で演説を行おうとしていた。

彼女の名はマリア=テレジア。

中世のヨーロッパに冠たるオーストリア=ハプスブルク家の当主である。

マリア=テレジア肖像画

マリア=テレジア肖像画

彼女の父、カール6世はスペインを失うものの、
オスマン帝国と戦って勝利するなど
ハプスブルク領の最大版図を築き上げた神聖ローマ皇帝である。

ただし、新興国プロイセンや宿敵フランス、
フランスのブルボン家が王として君臨するようになったスペイン、
隣国バイエルンなど利害が対立する国も多かった。

彼の最大の心配は後継者マリア=テレジアのことであった。
男子に恵まれなかった故に彼女を世継ぎに指名せざるをえず、
外交を駆使して諸外国に娘の当主継承を認めるよう約束させた。

カール6世は23歳の王女を残して1740年に逝去する。

これを好機と見て、
対立諸外国はマリア=テレジアに継承権なし、
と主張して軍を率いてオーストリアに殺到した。

約束よりも力がものを言う社会、これが中世ヨーロッパであった。

フォントノワの戦い

フォントノワの戦い

次々に侵略されていくハプスブルク領。
まさに存亡の危機に瀕していたオーストリアの君主は
傘下にあったハンガリー王国に向かった。

民族の違いから国民感情はハプスブルク家に好意的ではなかったが、
ハンガリー王国に離反されては滅亡からは逃れられない。

マリア=テレジアは急いでハンガリー王に即位すると、
この国の支持を得るべく、議会の壇上に上がったのだった。
場面は冒頭に戻る。

戦況の逆転

喪服を身につけ、彼女は演説する。

そしてこう言った。
「私とわが子を守れるのはあなた方をおいてほかにないのです」

実際には交渉は数カ月かかったという。

しかし、ハンガリーの貴族達が最終的にこう誓ったのは事実だ。
「女王陛下のために我らの血と命をささげる」

ハンガリー女王マリア=テレジア

ハンガリー女王マリア=テレジア

ここに戦局は一変する。
精強なハンガリー軍はオーストリア軍の中核となって
猛然と各国軍に襲いかかった。

あっと言う間にバイエルン軍を撃破して君主を敗走させ、
これに怯んだプロイセンを交渉の席に引きずり出してこれと講和。

これによりフランスが孤立した。

さらにバイエルンを徹底的に叩いてボヘミアを奪還してボヘミア女王を継承し、
マリア=テレジアはオーストリア全土を掌握するに至ったのである。

その後、プロイセンのフリードリヒ2世が
講和を破って侵攻してくるが
これも義弟カール=フォン=ロートリンゲンが撃退した。
失意のバイエルン君主はまもなく死去する。

マリア=テレジアは
夫のフランツ=シュテファン=フォン=ロートリンゲンを
神聖ローマ皇帝フランツ1世として即位させることにも成功し、
自身の地位を磐石なものとしたのである。

「国母」マリア=テレジア

実質的な女帝となったマリア=テレジアは
次々に有用な人材を登用し、各分野で改革を行わせた。

内政にはハウクヴィッツを登用して行政の効率化、
財政制度と税制の見直しを推進。

軍ではダウン将軍を重用し、
陸軍の改革を行わせ、士官学校を設立させた。

歴史に特に名を残すのがカウニッツとともになし遂げた外交革命だ。
最大の仮想敵国はプロイセンと判断し、
宿敵たるフランスと同盟関係を結ぶことに成功したのである。

カウニッツ肖像画

カウニッツ肖像画

かくして着々と実績をあげる彼女の実力を君主継承当初、
諸外国は見誤っていたのだ。

実際、マリア=テレジアは、
晩年まで男子誕生を期待していたカール6世からは
帝王学を授けられてはいなかったという。

その情報によって、
各国の外交官の目は曇らされていたに違いない。

唯一、「新当主は油断ならない」と
母国に報告したのはイギリス外交官のみであった。

マリア=テレジアは君主として活躍するとともに家庭生活も充実させた。
10代のころに当時としては大変珍しい恋愛結婚をなし遂げ、
夫フランツと結ばれる。

10代のころのマリア=テレジア

10代のころのマリア=テレジア

この夫婦はフランツが亡くなるまで大変仲むつまじく暮らし、
なんと16人もの子をもうけたのだ。
この子のひとりが、かのマリー=アントワネットである。

マリア=テレジア・フランツ夫妻と子どもたち

マリア=テレジア・フランツ夫妻と子どもたち

幸せな家庭生活を体現し、
国家を充実させた彼女は国民から「国母」として慕われるようになった。

かつてハンガリー議会において我が子の庇護を求めた女は、
全オーストリアの母となったのである。

コインについて

ベルギー ブラバント公国 マリア・テレジア 1761年 ダブルソブリン 金貨

ベルギー ブラバント公国 マリア・テレジア 1761年 ダブルソブリン 金貨

今回ご紹介するコインは
1761年に発行されたダブルソブリン金貨だ。

発行したのはハプスブルク領の一部、ブラバント公国である。

マリア=テレジアは
ハプスブルク家当主としてブラバント公も兼ねていた。
そんなわけで、片面には彼女の横顔が刻印されている。

もう片面には楯のような紋章の背景に
聖アンデレ十字架を配置し、その上に王冠をいただいている。

聖アンデレ十字架は斜めに組み合わせた十字架で、
スコットランド国旗のモチーフなど、
キリスト教国で用いられる旗によく使われているものだ。

両面に刻印されている文字は続けて読むべきもので、
MAR . TH . D : G . R . JMP . G . HUNG . BOH . R . ARCH . AUST . DUX I761 BURG . BRAB . C . FL
となっている。

冒頭のMAR.THはマリア=テレジアの略である。
その後、神の威光の下に彼女の持つ地位を列記している。
1761はそのまま、鋳造された年だ。

自分の子と国の母となった「女帝」マリア=テレジア。
このコインを眺めていると
公私にわたってなにかしら力になってくれるような気がしてくる。

 

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